「一度も野球を嫌いになったことはないですよ」
 高校3年間はテレビを観ることも携帯電話を持つことも許されなかった。お正月休みの1週間を除けば、休日は1年に3日ほど。あとは毎日6時間以上の練習の毎日だった。
「夕方4時頃から練習が始まって、終わるのは10時過ぎ。それから寮に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、洗濯して……あとはもう寝るだけです」。
まさに青春の全てを野球に捧げた3年間。どんなに練習が厳しくても、辛くても、福島には野球のない生活は考えられなかった。
 そんな福島に野球を始めたきっかけを訊くと、意外な答えが返ってきた。
「実は自分は野球をやる気は全くなかったんです。好き、嫌いの前に野球を知らなかったんですよ」
 野球に全く興味を示していなかった福島を地元の軟式野球チーム「ジュニアジャイアンツ」に入れたのは、母・祥子(よしこ)だった。2つ上の兄が野球チームに入りたいと言ったことで、そうせざるを得なかったのだという。
「うちは共働きで、私が帰宅するのは夕方5時や6時なんです。それまで小さい由登を家に一人で置いておくわけにはいかなかったので、お兄ちゃんが野球チームに入りたいって言った時に『由登も一緒に入りなさい』と言ったんです。本人はあまり乗り気ではなかったみたいで、最初のうちは練習を休んだりしたこともあったみたいですね」

 だが、1年後にはチームの練習がない日も友達との遊びはもっぱら野球というほど、福島は立派な“野球少年”になっていた。その頃の憧れの存在は松坂大輔(当時は西武))だった。松坂と言えば、PL学園との死闘や決勝でのノーヒットノーランなど横浜高時代、甲子園での怪物ぶりが一番に思い出される野球ファンは少なくないだろう。しかし、まだ小学2年だった福島にはその時の松坂は全く記憶にない。彼にとっての松坂は白と鮮やかなブルーのユニホームを身にまとった西武のエースだった。

 当時、鳴り物入りでプロ入りした松坂は、ルーキーとは思えない存在感で日本プロ野球界を席捲した。常に冷静な表情で150キロ以上の直球に、鋭い変化球で名立たる打者を次々と打ち取っていく姿はまさに“怪物”だった。その年、16勝を挙げた松坂は最多勝を獲得。高卒新人としては史上初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。さらに高卒新人の投手としては33年ぶりの新人王に輝いた。そんな松坂のピッチングに福島は魅せられた。9年後、自分がその憧れの投手と同じ偉業を甲子園で成し遂げることになるとは、その頃の福島には知る由もなかった。

 15歳での旅立ち

 中学に入ると、福島は迷った末に軟式ではなく硬式の「徳島ホークス」に入った。そしてその頃から「県外の高校に行く」が口癖になっていた。母親にとっても息子の中学時代で一番に思い出すのはそのセリフだった。
「とにかく“県外に行く”ばっかり言っていましたよ。まぁ、1、2年生の時はさほど気にはしていませんでした。まだ、先のことだろうと思っていましたから。でも、3年になっても言っていた時には、本気なんだなと思いましたね」

 聞けば、福島の中学時代の成績は総じて良かったという。県内の高校にはどんな進学校にも合格するだけの力はあった。“文武両道”。これが福島家の教育の基本だ。それは大学に進学した今も変わらない。福島自身も肝に銘じている。卒業後の目標はプロ入りだが、学生の本分である勉学も決して疎かにはしていない。

 中学3年の夏、甲子園で活躍した大阪桐蔭に憧れ、同校への進学を強く望む息子に対し、両親は反対はしなかった。だが、母・祥子は、「いくら行きたいって言っても、そんな簡単に行けないのでは……」と考えていた。それほど母親にとって全国でも強豪の大阪桐蔭は遠い存在だったのだろう。しかし、そんな母親の心配をよそに福島には自信があった。そしてその自信通り、見事に合格してみせた。母・祥子はその時初めて「あぁ、本当に離れて行ってしまうんだなぁ」と実感し、寂しさがこみ上げたという。

「うちは走らせますから、最初は全員、痩せますよ」
 西谷浩一監督が部員の保護者にわざわざそう宣言するほど、大阪桐蔭の練習メニューはハードだった。
「大阪桐蔭の名物メニューといえば、学校から1キロほど離れたところにある山の階段ですね。108段くらいあるんですけど、そこをひたすら走るんです。それと、きつかったのはポール間走。往復で200メートルのダッシュを5本、続けざまにやるんです。3斑に分かれてスタートするんですけど、だいたい50秒くらいで戻ってきてしまうので、すぐに自分たちの番がまわってくる。休めるのはほんの1、2分なんです」

 もともと体の線が細い福島だが、食事の量はいたって普通だ。暑さ、寒さも関係なく、他の選手と同じ量をペロリとたいらげてしまう。だが、体質的に太らない。だから食べても食べても太るどころか、トレーニングによる減量の方が大きかった。入学時には76キロほどあった体重は、夏には68キロにまで落ちていた。

 大阪桐蔭野球部では2カ月に一度、「布団交換」という名の親との面会がある。5月、初めての布団交換に行った母・祥子は痩せた息子を見て少し心配になった。しかし見れば、他の1年生も入学時より痩せていた。そこで西谷監督の言葉を思い出して納得したという。だが、その年の夏、地方大会を終えて帰省してきた息子はさらに痩せ細っていた。さすがにその時は驚きを隠せなかったという。そのせいもあったのだろう。わずか3日ほどで大阪に戻る息子を見送る際、母親の目からは涙がこぼれ落ちた。
「“あぁ、また行ってしまうんやなぁ”と思ったらちょっと寂しくなってしまってね。でも、それからはすぐに慣れましたよ。そんなふうに寂しさを感じたのは、その1回きりでしたね」
 そう言って電話口の向こうから聞こえる母・祥子の笑い声には、15歳で親元を離れ、自立の早かった息子への誇りと、そしてほんの少しの寂しさとが入り混じっているように感じられた。

 初めての甲子園のマウンド

 高校1年の5月、福島は「母の日」に実家へ手紙を送っている。そこには「オレたちの学年が3年になった年は90回の記念大会で夏の甲子園には大阪からは2校出場することができる。だから絶対に甲子園に行くよ」という内容の文面が綴られていた。だが、福島が甲子園デビューを飾ったのは、予定よりも早かった。翌年の春、福島は早くも全国の舞台を経験することになる。

 当時、“平成の怪物”中田翔(現・北海道日本ハム)を筆頭にタレント揃いだった大阪桐蔭は秋の大阪大会を制し、近畿大会では決勝で報徳学園(兵庫)に敗れたものの、順当に選抜高校野球大会の出場権を手にした。1回戦の相手は日本文理(新潟)。大阪桐蔭は初回に2点を先制し、中盤にも相手のミスを突いて追加点を挙げ、試合の主導権を握った。そして「ピッチャー、福島」のアナウンスが甲子園球場にこだましたのは、8回表のことだった。アルプス席で家族と一緒に応援していた母・祥子の心臓は高鳴った。
「ベンチに入っただけで喜んでいたのに、まさか1回戦からマウンドに上がらせてもらえるなんて……。もう、“点を取られませんように!”と必死で祈っていましたよ」

 母親の心配をよそに、マウンド上の福島はいたって落ち着いていた……いや、そう見えただけだった。実はほとんど何も記憶に残っていないほど緊張していたという。
「もう、マウンドに上がった途端に、足が震えてしまって……。覚えていることと言えば、マウンドからキャッチャーまでの距離がいやに遠いなぁと感じたことくらい。やっぱり他の球場とは全く違う独特な雰囲気でしたね。普段は最初のバッターを抑えれば緊張はとけるんですけど、この時ばかりは最後まで心臓がバクバクでした」
 しかし、そんな言葉とは裏腹に、結果は三者凡退。最高の甲子園デビューに、福島も、そして母親もほっと胸をなでおろした。

 だが、その5日後、福島は一転、甲子園の厳しさを知ることになる。佐野日大(栃木)との2回戦はともに12安打をマークする打撃戦となった。2回裏、佐野日大が1点を先制するも、3回表に大阪桐蔭は一挙6点を挙げ、逆転に成功した。するとその裏、西谷監督は先発の石田大樹から福島にスイッチした。だが、福島は指揮官の期待に応えられず、4回を投げて9安打7失点を喫した。アルプススタンドでは母・祥子が「早く交代させて!」と心の中で叫びながら悲痛な面持ちで、相手の猛攻を浴びる息子を見守っていた。

「甲子園入りしてからすごく調子が良かったんです。2回戦は先発でいってもいいと言われていたくらいでした。でも、当時はまだ内角を突く力はなかったので、外へのスライダーを振ってもらえなかった。でも、そんなにショックではありませんでした。初めての甲子園で抑えることもできたし、打たれもした。どちらも経験することができてよかったなと。その後の自分にも大きかったと思います」

 結局、大阪桐蔭は準々決勝で、その後優勝することになる常葉菊川(静岡)に1−2で敗れ、甲子園を後にした。優勝候補ながらベスト8に終わったものの、福島はやはり自分たちが一番強いと感じていた。
「中田さんたちがいた1学年上の先輩がすごかったので、甲子園でも“すごいな”と感じた選手や学校は一人も見当たりませんでした。普段からあの中田さんの豪快なバッティングを間近で見ていましたからね。浅村(栄斗)さん(現・埼玉西武)もいましたし。今思うと、本当にすごい環境で野球をやらせてもらっていたなと思います」

 しかし、その年の夏、大阪桐蔭は大阪大会決勝で好投手・植松優友(現・千葉ロッテ)擁する金光大阪に1点差で敗れた。甲子園の土を踏むことなく、“平成の怪物”の全国制覇の夢は断たれた。試合後、チーム全員が涙にくれた。福島は何もすることができなかった自分のふがいなさに涙が止まらなかった。

(第3回につづく)

福島由登(ふくしま・ゆうと)プロフィール>
1990年5月20日、徳島県生まれ。小学1年から野球を始め、中学時代は徳島ホークス(ヤングリーグ)に所属。中学3年時には全国大会に出場した。大阪桐蔭高では1年秋からベンチ入りし、2年春の選抜では甲子園で2度のマウンドを経験した。3年夏には決勝に進出し、98年の松坂大輔(横浜)以来となる完封勝ちを収め、17年ぶり2度目の全国制覇に貢献した。2009年、青山学院大に進学し、現在はチームの主力として活躍している。178センチ、78キロ。右投右打。







(斎藤寿子)
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