「史上最弱」
 これが中田翔(北海道日本ハム)らが抜けた大阪桐蔭への評価だった。
「新チームになった時に西谷浩一監督に言われたんです。『オマエら、他から何て言われているか知ってるか? 今年の桐蔭は弱いって言われているんだぞ。そんなこと言う奴らを見返そうじゃないか!』って。確かに僕たちの学年には中田さんたちの学年のようにスター選手がいたわけではなかった。だから、とにかく“全員野球”でいくしかなかったんです」
 全国から注目された前年とは一転、この年の大阪桐蔭はまさにゼロからのスタートだった。
 2007年秋は福島由登にとって、試練の時だった。翌春のセンバツをかけた秋の大阪府予選・準々決勝、大阪桐蔭はPL学園と対戦した。先発した福島は序盤からPL学園打線につかまり、3回を投げて6失点。リリーフした奥村翔馬も追加点を奪われ、リードを広げられた。一方の大阪桐蔭打線は相手エースの前に沈黙が続いた。結局、大阪桐蔭は0−9で7回コールド負けを喫した。
「当時は内角への制球がなく、外角のボールでしか勝負していなかったんです。高さやスピードで変化をつけて、という感じでそれまでは抑えることができていました。ところが、この時のPL学園にはそれが全く通用しなかった。初めて“このままではあかんなぁ”と危機感を覚えました」

 内角を攻めるピッチングができなければ勝てない。そう考えた福島は、内角に投げられるコントロールを身につけようと決心した。ところが、その矢先、今度はケガに見舞われてしまう。完敗したPL学園戦後、大阪桐蔭は3日連続でダブルヘッダーの練習試合に臨んだ。3日とも1試合目は福島が先発、完投した。すると3日目の試合終了後、福島は腰痛で歩くこともできなくなってしまった。
「体の線が細かったですし、監督は夏に向けて僕を鍛えようとしてくれたんだと思います。僕自身も3連投でも特に嫌だとは思わなかった。でも、おそらく疲労がたまっていたんでしょうね。確かに1日目からちょっと痛かったですから」
 結局、福島は2カ月間、ピッチングができないまま年を越すこととなった。

 お正月、徳島の実家に帰省した福島は、家族と地元の薬王寺に初詣に行った。お参りを終え、全員でおみくじを引くことにした。すると、兄と共に福島は「凶」を引き当てた。それを見た母・祥子は落ち込んだ。
「秋にPL学園にコールド負けをしたのを思い出してしまって、思わず『また、やられてしまうんかなぁ』と言ったんです。そしたら由登はこう言ったんですよ。『これ以上、悪くならないってことやん。頑張ったら、きっと夏は甲子園に行けるわ』って」
 息子のポジティブな言葉に、祥子はほっとした。と同時に、15歳で親元を離れたが故の強さを頼もしく、そして寂しく感じていた。

 年が明け、ようやく復帰した福島は早速、内角へのコントロールを意識した練習を開始した。チームメイトに打席に立ってもらい、来る日も来る日も内角へ投げ込んだ。
「もう最初は打者に当てまくりでしたよ(笑)。それでも投げ込みの8割くらいはインコースという感じで毎日投げ続けました。3月になって対外試合が解禁になってからも、対戦相手のバッターに当てていましたね。1試合で4つくらいは死球を出していましたから、その頃はまだ少し怖いなという思いがありました」

 自信がついたのは春の府大会、3回戦のことだ。対戦相手は奇しくも、福島が内角球への重要性に気付くきっかけとなったPL学園だった。この試合、福島はリリーフとしてマウンドに上がると、ビシッ、ビシッと内角にボールが決まり、PL学園打線を封じた。チームも5点差を逆転し、秋の雪辱を果たした。
「この試合で自信をつけましたね。そこからは特に意識しなくても、投げられるようになりました。秋にコールド負けを喫したPL学園に勝てたことで、チーム全体の士気もグンと上がったと思います」
 チームも福島もいい状態で、3年間の集大成、最後の夏を迎えた。

 勝利を呼んだ大一番での集中力

 その年の大阪は履正社、PL学園、そして大阪桐蔭が3強として優勝候補に挙げられていた。しかし、同年は全国高校野球選手権が90回を迎え、記念大会として埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫の4県1府には2校に出場権が与えられることとなっていた。大阪桐蔭は履正社と同じ北大阪に割り当てられた。一方、PL学園は南大阪となったため、大阪桐蔭のライバルは履正社一本に絞られた。

 大阪桐蔭は1回戦から3試合連続でコールド勝ちと圧倒的な力を見せつけ、順当に勝ち進んだ。福島も調子は上々だった。しかし準々決勝、思わぬアクシデントが福島を襲った。試合自体は3回までに6点を奪った大阪桐蔭が主導権を握り、優位に進めていた。だが終盤、福島は死球を右腕に受けてしまう。それでもエースとしての自覚があったのだろう。痛みとしびれを我慢してマウンドに上がった。8回裏には無死満塁と最大のピンチを迎えた。「根性で投げました」という福島は、なんとか無失点で切り抜けた。だが、ベンチに帰るなり、西谷監督に「次の試合は無理です」と告げたという。負けたら最後のトーナメント戦。チームの勝利を最優先に考えた末の決断だった。

 箕面東との準決勝は延長にもつれこむ投手戦となった。初回、大阪桐蔭が1点を先制すると、箕面東は2回表、4番打者に同点弾が飛び出し、すぐに試合を振り出しに戻した。そして、それからはお互いにゼロ行進が続いた。先発こそ回避した福島だったが、1点差を争う試合展開にエースの登板はやはり不可欠だ。5回表、マウンドには福島の姿があった。右腕の痛みはほとんどひいてはおらず、ボールを握ると激痛が走った。だが、そんなことはいってはいられなかった。福島は粘りのピッチングで箕面東に追加点を許さなかった。その力投に応えてみせたのが、一番の親友であった奥村翔だった。10回裏、奥村は相手エースの変化球を完璧にとらえ、レフトスタンドへ。大阪桐蔭はサヨナラ勝ちで2年連続で決勝の舞台にコマを進めた。

 決勝の相手は予想通り、履正社だった。前日の夜はぐっすりと眠れた福島だったが、当日は試合開始時間が迫るにつれ、緊張感が増していった。試合前の練習では、一度はブルペンで投げ始めたものの、あまりの緊張で気分が悪くなり、わずか5球でやめてしまった。野手がシートノックを受けている間、ベンチに座り込んでいる福島を見て、監督が声をかけてきた。「もう、(肩は)できたんか?」。とても「緊張で気分が悪い」などとは言えなかった。「はい、終わりました」。そう言って、平気を装うのが精一杯だった。

 結局、福島はそのまま決勝のマウンドに上がった。すると、先頭打者にいきなりツーベースを打たれてしまう。「これはヤバいな」。さすがの福島も少し焦りを感じた。ところが、結局この回を無失点で切り抜けると、2回以降も強力な履正社打線を寄せ付けなかった。終わってみれば、準決勝までの6試合で58得点の履正社を散発6安打に抑え、味方打線が少ないチャンスで挙げた2点を守って完封勝ちを収めた。
「初回は緊張しましたが、先制点を取ってもらってからは、それほど緊張感はなかったですね。4回くらいからはもう打たれる気がしませんでした」
 試合前の緊張感など嘘のように、大一番で完璧なピッチングを披露した福島。この時から既に彼は“もっていた”のかもしれない――。

(第4回につづく)

福島由登(ふくしま・ゆうと)プロフィール>
1990年5月20日、徳島県生まれ。小学1年から野球を始め、中学時代は徳島ホークス(ヤングリーグ)に所属。中学3年時には全国大会に出場した。大阪桐蔭高では1年秋からベンチ入りし、2年春の選抜では甲子園で2度のマウンドを経験した。3年夏には決勝に進出し、98年の松坂大輔(横浜)以来となる完封勝ちを収め、17年ぶり2度目の全国制覇に貢献した。2009年、青山学院大に進学し、現在はチームの主力として活躍している。178センチ、78キロ。右投右打。







(斎藤寿子)
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