遅咲き選手の開花に適した日本メディア&ファンの甘さ
日本のメディアは、ファンは甘い。だから、強くならない。ずっとそう思い込んできた。確かに、ミスをすれば厳しく叱責される世界と、なんとなく許されてしまう世界では、最終的な完成形に違いが出てきて当然。極論すれば、日本は間違っていて、欧米は正しい。サッカーに関して言うと、そんな、いわゆる“出羽守”的な前提が、わたしにはあった。
それが、揺らぎつつある。
先週の土曜日、G大阪の山下諒也がとてつもないゴールを決めた。狭いスペースで、状態を後ろに倒しながらの左足インフロントチップ。ボールはゆっくりと弧を描き、GKの頭上を破った。
サッカーのシュートには、おおまかに言って3種類ある。簡単なシュート、難しいシュート、才能のある者にしか打てないシュート、である。山下のゴールは、間違いなく3番目の一撃だった。
ところが、これほどのシュートを放てる男が日体大を卒業しようとしていた時、獲得に動いたJ1のチームはなかった。声をかけたのは、当時J2だった東京Vだけだった。
なぜ東京Vは山下を獲ろうと考えたのか。当時の監督で、いまは神戸のSDを務める永井秀樹によれば、理由は2つあった。
「一つはズバ抜けたスピードがあったこと。もう一つは、“大木印”というものが大きかったですね」
山下は、磐田の育成組織の出身だった。そして、彼の指導にあたったのが、いまは熊本で監督を務める大木武だった。永井は、「大木さんが育てた選手ならば、ベースはできているはずだ」と考え、最初は練習生という形で、どこからも声のかからなかった山下を引き取ったのである。
技巧派をズラリと揃えた当時の東京Vにあって、山下のスピードは異彩を放っていた。チームからすれば“拾い物”だったのは間違いない。ただ、その輝きを他を圧倒していたかといえば、そうでもない。少なくともわたしの目には、藤田譲瑠チマや山本理仁ほどに魅力的な選手とは映らなかった。6年後、G大阪の選手としてとてつもないゴールを決めるなどとは、想像もできなかった。
年間最優秀ゴールに選ばれても不思議ではない一撃を、山下はチームの公式YouTubeでこう振り返っている。
「ヤット(遠藤保仁)さんとの練習通りです」
つまりは、天賦の才によるシュートというよりは、苦しい体勢、限られたコースの中で決める練習を、信頼できるコーチと積んできたがゆえのゴールだったということだろう。
ただ、日本のメディアが、欧米並みに厳しかったとしたらどうだったか。
失礼ながら、6年前の山下はあんな得点を決められる選手ではなかった。期待値の高くない選手に機会を与え続ける首脳陣を、甘くないメディアは放置しただろうか。練習生あがりの選手に与えられる実戦の機会は、もっと限られていたのではないか。
英国にも、23歳までアマチュアでプレーし、33歳でプレミアの得点王になったヴァーディのような例はある。ただ、日本ほど、20代半ばを超えて伸びる選手の多い国をわたしは知らない。山下に限った話ではない。三笘も、伊東も、22歳の時はアマチュアだった。
日本のファンもメディアも、もちろん完璧ではない。しかし、「甘さ」と捉えられていた部分は、遅咲きの選手を成長させるには適した環境だったのかもしれない――そんなことを考えさせられた週末だった。
<この原稿は25年3月13日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>