西本恵「カープの考古学」第85回<高卒ルーキー百花繚乱編その8/マーカット少将の功績と、呉市が歴史の交差点に>

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 カープ創設から3年目のシーズンの昭和27年は、開幕から波乱万丈だった。エース長谷川良平は、名古屋軍にかくまわれた後、広島に戻ってきたものの、練習を十分に積めておらず、公式戦でいきなり投げられるわけもなかった。このエース不在期間を埋めたのが、高卒の新人投手たちであった。そこに交じり、輝いたのが移籍入団の野崎泰一。カープ入団時にはすでに28歳で、選手寿命が短い当時、全盛期を過ぎていたが、カープでの初登板で大殊勲のピッチングを見せたのだ。

 

 5月14日、後楽園球場でのカープ対巨人戦で9回途中まで、強打の巨人打線を1点に抑える好投だった。落差の鋭いカーブを駆使し、5回までパーフェクトという圧巻の内容であったのだ。

 また、この日は、<在日米軍・マーカット少将の送別試合>(「デイリースポーツ・カープ風雲録外伝⑱歴史を彩った男たち」平成20年6月11日)でもあった。

 

 独立国家として歩み始めた日本が、日本プロ野球の2リーグ制への基礎をつくったとされるウイリアム・マーカット少将に感謝の思いを込めて送り出すという大切な日であった。国家が送り出す要人が見つめる中、野崎は力を発揮したのだ。

 

 さて、このプロ野球でのマーカット少将の送別試合の他に、近年の調査で新たな送別試合の記録がみつかった。それは3日後に行われていたアマチュア野球の試合だった。

<マ少将送別野球(後楽園) 全神奈川 9対6 全東京>(「朝日新聞」昭和27年5月17日)

 この記録は東京と神奈川の選抜チームという、時期や会場からしておそらく、社会人野球だろうと推測される。

 

日本プロ野球の道しるべ

 マーカット少将とは、いったい何者か――。あのダグラス・マッカーサー元帥の懐刀とされている。第二次大戦中は日本とのフィリピン戦線において、マッカーサー自身が、オーストラリアまで逃飛行した際、行動を共にしたバターンボーイズの一人で、側近中の側近だ。戦後、昭和20年12月には、GHQの経済科学局長に就任。経済については素人といわれていたが、日本を経済的な復興へ向かわせ、東京商工会議所においては、マーカット懇談会を開催した。

 

 そのいっぽうで、アメリカのコーストリーグに所属するサンフランシスコ・シールズの来日に尽力した。日本の野球をこよなく愛し、アメリカの2大リーグ制を参考にし、プロ野球の2リーグ化に心血を注いだ。日本プロ野球のコミッショナー制度の創設をはじめ、南海のホーム球場、大阪スタジアムの建設の許可をした。話は逸れるが、この時の南海監督は、呉市出身の鶴岡一人だった。

 

 いわゆる球場整備や、野球リーグの運営、その機構のあり方、さらに選手獲得においてのルールをも明確にした。プライベートでは、日比谷公園グラウンドに出かけ、ソフトボールの試合に興じるという根っからの野球人であった。試合では、マーカット少将がセカンドを、日米の野球復興の架け橋になったキャピー原田がショートを守った。二遊間のコンビネーションはよく、ダブルプレーを完成させ、試合を沸かせることもしばしばあったというのだ。

 

 マーカット少将が、占領統治を終えて、帰国するとあらば、プロ野球に、アマチュア野球と、こぞって送別試合をやったとしても、なんら不思議なことではなかったはずだ。マーカット少将の存在があったからこそ、初期のプロ野球で、引き抜きや選手争奪の激しい中においても、2リーグ制の船出がスムーズに進められた。

 

 占領時代におけるマーカットの足跡こそが、日本プロ野球の歩むべき道しるべとなり、さらに2リーグ制でもって明確な歩みを果たせるまでになったのだ。この2リーグ制は、現代のプロ野球に至るまで、大きく姿を変えることなく、堅持されていることから、マーカット少将の先見性がいかに正しかったか。

 

日本の独立と呉市の自立

 ところで、この時期の日本国自体はどうであったろうか――。独立は、昭和27年4月28日だった。

<二十八日午後十時三十分重苦しい六年八ケ月の占領のきずなは解かれ「自立日本」はここに誕生した>(「中国新聞」昭和27年4月30日)

 

 そこに湧き上がるほどの喜びに包まれたかというと、実はそうではなかった。むしろ、国民にあっては、戸惑いとためらいの中での独立であったようだ。

<例えば日の丸一つにしても、独立の今日でもまだ揚げる揚げないで何か割り切れないものを感じているようで、新生日本のあり方が問題となっている>(「中国新聞」昭和27年5月2日)

 家々では、国旗の掲揚を迷っていたという。

<日本の歴史の第一ページはおごそかに開かれた、東京では公式な催しは何一つ行われなかった>(「中国新聞」昭和27年4月30日)

 

 一部では銀座などで飲み明かす姿もあるにはあった。しかし、そのほとんどは、騒がずじっと独立の喜びを噛みしめ、当時の占領下から脱することを静かに受け止めていた。

 

 独立を果たした直後、肝心のカープは、4月30日、呉市二河球場を皮切りに、5月1日、広島総合球場、さらに5月7日、甲子園球場といった具合に、阪神と3試合が行われた。

 4月30日の呉市二河球場は、今シーズン、高卒新人の大田垣喜夫が開幕戦を完投で勝利を飾ったという縁起の良い球場だった。また先の好投をした野崎の生まれ故郷でもあるのだ。さあ、独立後の初試合に期待がかかる。

 第二次大戦の開始の指揮を執った連合艦隊総司令長官、山本五十六の指示が出されたとされるのは、呉市に停泊中の戦艦長門の中から始まったというのも何かの因縁であろうか。

 

呉市の復興と国交正常化に尽くした人物

 時を同じくして、この呉市にたいへんゆかりのある人物の動きが、報道されている。

<高良女史と露都で語る>(「中国新聞」昭和27年5月2日)

 高良女史とは、高良とみ氏のこと。この記事は、同時期にロシアを訪問中であった彼女を捉えている。この時高良氏が行っていたこととしては、<高良女史は主として在留同胞の問題でソ連当局と話し合っており>(同前)とある。ロシアに抑留された日本人兵士の帰国に向けて交渉を重ねていた。この高良氏の功績はあまり多く語られていないが、思い立ったら直ちに動き出すという、行動派の人物であった。

 

<単身ソ連にでかけ国交回復の端を開き、さらに同胞の帰国協定のため中国に使いし、日中貿易の門戸を開いた>(「THE CHUGOKU NIPPON」昭和34年5月26日)

 原水爆禁止のためには、しばしばアメリカ、イギリスをはじめ、ヨーロッパ、インドにも行き、世論を喚起して回った人物である。そして何よりも伝説となっている逸話は、戦後すぐに呉市で助役を務めた際、空襲で焼け野原になっていた呉市の市民らの前に立ったときのことだ。当時、呉市長・水野甚次郎氏からのすすめで、前に出た高良氏はこう言った。

 

 テーブルの上で仁王立ちになり右手をあげ、<「あしたから一緒に新日本を軍都を平和都市につくり直そうではありませんか」>(「ヒロシマと女性」平成4年6月~5年1月)と言い放ち、さらには<「男どもはみんな戦犯です。これからは女の時代」>(同前)と説いたという。

 

 後々の女性の自立を目指した運動家としても注目されたが、何と言ってもこの時、焼け野原の呉市役所に置かれたテーブルの上に立ち、テーブルクロスを除けて、そこに立って力強く宣言したという。この出来事が、かつての軍都呉市の復興につながったとも言われている。

 

 今回のカープの考古学では、プロ野球2リーグ制の基盤をつくったマーカット少将や、呉市を復興にむかわせた人物、高良とみ氏を紹介した。次回のカープの考古学は、わが国の独立後、最初に行われたカープ戦について詳細をお伝えする。阪神との三連戦、意外な結末となるのは見逃せない。ご期待あれ。

 

【参考文献】

『プロ野球を救った男 キャッピー原田』市岡弘成・福永あみ(ソフトバンク・クリエイティブ)、『兵隊にされたプロ野球選手 戦争と野球』川崎徳次(ベースボール・マガジン社)、『ベースボールと日本占領』谷川建司(京都大学学術出版社)、『太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史』キャッピー原田(ベースボール・マガジン社)、『セ・パ分裂 プロ野球を変えた男たち』鈴木明(新潮文庫)、『球団消滅』中野晴行(ちくま文庫)、『プロ野球復興史 マッカーサーから長嶋三振まで』山室寛之(中公新書)、「デイリースポーツ・カープ風雲録外伝⑱歴史を彩った男たち」(平成20年6月11日)、「朝日新聞」(昭和27年5月17日)、「中国新聞」(昭和27年4月30日、5月2日)、「THE CHUGOKU NIPPON」(昭和34年5月26日)、「ヒロシマと女性」(平成4年6月~5年1月)

 

【協力】

広島市立中央図書館

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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