金丸には第一人者にしか分からない独特の感覚がある。トラックを駆け抜ける際、地面に「かみつく」イメージを持っているというのだ。
「足をパンとムチのように地面に叩きつけて、しっかりかみつかせる。その勢いで体を前に持っていく。そういう意識で走っています」
 高校時代から独特の走りで、日本のトップアスリートの仲間入りを果たした金丸は法政大に進学する。かつての100m日本記録保持者・不破弘樹、世界陸上400mハードルで2個のメダルを獲得した為末大らを輩出した名門だ。今回の世界陸上でも男子200mで小林雄一、同400mハードルで岸本鷹幸の2名が代表に選ばれている。

「もう彼は大学に入った時点で、金丸は僕の現役時代の自己ベスト(45秒57)を超えていましたからね(金丸の高校でのベストは45秒47)。僕もそこから先の感覚は分からない。だから本人の主観を大事にして、良いところを伸ばすことを第一に考えていました」
 大学時代から金丸を指導する法大陸上部・苅部俊二監督はこう語る。自身も現役時代は400m、400mハードルで活躍し、五輪で2度、世界陸上で5度走った。もともと法大陸上部の練習は強制とは異なる自由な雰囲気で知られる。苅部は大阪からやってきた才能豊かな少年に細かいことは言わなかった。
「自由だからこそ最初は難しい部分もありました。高校時代は監督やコーチがメニューを作って、いろいろと教えてくれた。でも、ここ(法大)では自分で考えてやらないといけなかったんです。中には“何をしていいのか分からない”という選手もいます。だけど最終的には人から教えられたことをただ継承するんじゃなくて、自分なりの思想や理論を構築させないと本当の自分の走りはできない。その意味ではいい環境で大学時代を過ごせたと思っています」
 大学を卒業し、大塚製薬工場に就職した今も、金丸は東京の支店で勤務する傍ら、法大の陸上グラウンドを拠点にしている。

 だが、大学に入ってからの金丸はケガに悩まされる。
「当時は44秒台も、高野(進)さんの日本記録(44秒78)もすぐ抜けるんじゃないかと思っていたんですけどね……」
 1年生の時に右の太ももを痛めると、地元開催となった翌年の世界陸上大阪大会では、左の太ももが悲鳴を上げ、無念の途中棄権に終わった。雪辱を期した2008年の北京五輪では、5月の関東インカレで右太ももを肉離れ。五輪切符は得たものの、本番1カ月前の練習で故障が再発した。結果は46秒39と本来の力を出せないまま、予選敗退……。

 さらに大学4年生となって迎えた世界陸上ベルリン大会でも、代表合宿の最終日に左太ももを痛めた。レースに間に合わせるのがやっとの状態で、予選で敗れ去った。周囲の期待が大きいだけに、相次ぐ故障に対して「トレーニングに問題がある」「大舞台に弱い」との批判の声があがった。

 いい練習と故障は紙一重

 もちろん、本人だってケガをしたくてしているわけではない。大学では栄養学を学び、サプリメントを活用して、予防に細心の注意を払った。故障につながるリスクは極力、回避するよう普段から心がけている。しかし、度重なる故障を経て現在は「それでもケガは起きる」という考えに至っている。
「ケガを恐れて全力で走らないようでは、いい練習はできません。世界との差はただでさえ大きいのに、限界ギリギリまで全力を出しきって、いい練習をしないとレベルは上がりませんから」

 苅部も教え子をこうフォローする。
「ケガをさせてしまったことは指導者として非常に反省しています。ただ、金丸クラスになると世界陸上に出ただけでは評価されません。僕も現役時代はそうでしたが、世界で結果を残すには、より高いレベルを目指して自らを追い込まないといけない。これは本人も一番自覚しています。正直、これまでの大会でも44秒台が出るんじゃないかというところまでは仕上げているんですよ。でも、調子がよすぎて逆に体がついていけなかった。彼の良さは限界を超えて、筋肉が悲鳴を上げるくらい走ってしまう爆発力にあります。だから本番直前ではなく、本番のレースで、そのリミッターを切れれば、ものすごい走りができると思うんです」

 ローリスクでは何も得るものはない。ハイリスク、ハイリターン。それが師弟の一致した考え方だ。裏を返せば、それだけ金丸は自分の走りに勝負を懸けている。
「本当は何もないまま伸びるのがベストでしょうけど、そうはならなかった。ただ、すごくいい経験を積んでいる自信はあります。それを結果につなげたい。いい走りにつなげなければ本当に意味がないですから」
 リベンジの舞台、大邱での世界陸上はもう間もなくやってくる。

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(第4回へつづく)

金丸祐三(かねまる・ゆうぞう)プロフィール>
1987年9月18日、大阪府生まれ。マイケル・ジョンソン(米国)に憧れて中学から陸上を始め、大阪高2年時のインターハイで初優勝。その年の国体400mでは45秒89で走り、為末大が持っていた日本高校記録を8年ぶりに塗り替える(以後、2度更新)。高3時の05年には日本選手権で優勝。同年の世界陸上ヘルシンキ大会に1600メートルリレーで初出場を果たす。以後、世界陸上は4大会連続で代表入り。08年には北京五輪にも出場。09年5月の大阪グランプリでは日本歴代4位、自己ベストとなる45秒16で2位に入る。今季は5月の大邱国際選手権で優勝。6月の日本選手権では男子短距離では初の7連覇を達成した。法政大を卒業した10年より大塚製薬工場に所属。身長177センチ、体重77キロ。







(石田洋之)
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