パーン、パーン、パーン……。
 8月中旬、千葉県柏市にあるテニストレーニングセンター(TTC)のドアを開けると、すぐにテニス独特の乾いた音が聞こえてきた。室内とはいえ、「今年一番」というほどの最高気温をマークしたこの日、じっとしていても汗がしたたり落ちるほどの蒸し暑さだった。そんな中、一番端のコートでは男性が一人、コーチが打つボールを必死に追いかけていた。車いすプレーヤーの藤本佳伸だ。小学生の時から器械体操をやっていたということもあり、上半身はテニスプレーヤーらしからぬ強靭な肉体であることは傍目からも十分にうかがい知ることができた。こちらに気付くと「こんにちは!」と屈託のない笑顔を向けてきた。その表情は充実感に満ち溢れているように感じられた。
 今年7月、藤本は南アフリカで行なわれた「ポロクワネ・オープン」でシングルス優勝を果たした。2009年以来、実に2年ぶりの優勝に「久しぶりに気持ちよく笑ったような気がします」と振り返った。
「ダブルスでは何度か優勝していたのですが、シングルスではファイナルまでいっても、いつも最後の最後に負けてしまっていたので、本当に嬉しいです」

 人生初のリタイア

 実はこの前の大会で藤本はテニス人生で初めての苦い経験を味わっていた。ジャパンオープン、韓国オープンとアジアツアーを終えた藤本は、その4日後には「バーミンガム・カナディアン・クラシック」に出場するため、カナダへと飛んだ。だが、この時既に藤本の右ヒジには異変が生じていた。

「バーミンガム・カナディアン・クラシック」では順調に勝ち進んだ。準決勝で第1シードのパワーヒッターにフルセットの末に逆転勝ちし、ファイナルへとコマを進めた。だが、3月からほとんど休みなしで世界を転戦してきた藤本の体は明らかに疲労がたまっていた。そのため、過密スケジュールで大きな負担をかけてきた藤本の右ヒジが悲鳴をあげはじめていた。通称「テニスエルボー」。ヒジの関節の骨に付着する腱が炎症あるいは断裂し、激しい痛みが生じるのだ。それでもここまでなんとかごまかし、プレーをし続けていた。

 だが、決勝の日、朝起きるとヒジの痛みは尋常ではなかった。あまりの痛さにラケットを握ることさえままならなかった。それでも決勝まできて、棄権するなどということは考えられない。痛みをこらえながら支度をし、藤本はホテルを出た。
 頼みの綱の痛み止めは全く効かなかった。試合前のアップ時には軽めのショートラリーの時点で聞き手の右手に左手を添えてラケットを支えなければならないほど痛みはひどくなっていた。
「これは、本当にヤバいな……」
 不安ばかりが募った。

 決勝戦、出だしこそよかったものの、すぐに相手に主導権を握られると、藤本は自分のプレーを全くさせてもらえず、1セット目を2−6で落とした。そして2セット目に入ると、藤本に戦う力は残ってはいなかった。右ヒジがもう限界だったのだ。3ゲーム連続で奪われると、藤本はリタイアすることを告げた。
「2セット目に入った時点で、もう完全にラケットが握れない状態でした。痛くてインパクトはブレちゃうし、そこから先のラケットの動きができなかったので、コントロールすることが全くできなかったんです。『これ以上やっても、ヒジを悪化させるだけだな』と。それでリタイアを決めました」

 初の途中棄権にショックは大きかったのではないか――。
「リタイアしたことは正直、悔しかったですけど、すぐに次の試合が控えていたので、それまでに治ってくれるどうかの方が気になっていました」
 藤本は既に前を向いて歩き出していた。

 再確認したテニスの真髄

(写真:約2年ぶりのシングルス優勝に自然と顔がほころぶ)
 帰国後、藤本は右ヒジのケアに集中した。次の南アフリカでの大会まで約1週間。最後の最後までコーチやトレーナーと共に出場するか否かを迷っていた。だが、最後は出場することを自らの意志で決めた。
「出場メンバーを見たら、僕が第1シードになっていたんです。これはチャンスだなと思いました。ヒジ以外は体もキレていましたし、どうにかしてそこで優勝したいなと。それと、来年のロンドンパラリンピックを考えた時に、ここでポイントを稼いでおきたいと思ったんです」
 右ヒジがどこまでもってくれるのか……。やはり不安はあったが、藤本は本気で優勝を狙いに南アフリカへと向かった。

 結果は見事、優勝だった。勝因はどこにあったのか――。
「今までは常にハードヒットでポイントを取ろうとしていたのですが、今回はヒジを痛めていたので、それができなかったんです。そこで、チャンスボールがくるまで待つことにしました。それまでは回転をかけて相手が嫌がるような球だったり、コースを狙って相手を動かしたり……。そうすることで、ミスを誘うこともできましたし、いざチャンスボールが来たときには、変に力むことなく打つことができた。改めて、テニスは力だけじゃないんだなと思いましたね。優勝したことよりも、そのことの方が僕にとっては大きな収穫になりました」

 まさに“ケガの功名”とはこのことだろう。これまで海外選手のパワーに自らもパワーで対抗しようとしていたが、それがリズムを単調にし、ミスの誘因にもなっていた。しかし、ヒジをケガしたことによって、緩急の使い分けや展開力の重要性を実戦の場で再確認することができたのだ。
「リタイアした時、ただでは起き上がらないぞ、と思っていたんです(笑)」
 苦しみを乗り越えた藤本には、新たな自信が生まれていた。

(第2回へつづく)

藤本佳伸(ふじもと・よしのぶ)プロフィール>
1976年5月13日、徳島県生まれ。小学3年から器械体操を始め、県内随一の名門・鳴門高に進学。しかし、2年時に鉄棒から落下し、下半身不随に。その後は車いす生活を余儀なくされる。大学卒業後、23歳から車いすテニスを始める。より高いレベルを目指し、2005年に千葉県に生活の拠点を移し、パラリンピアンを数多く輩出しているTTC(テニストレーニングセンター)に通い始める。08年北京パラリンピックに出場し、シングルス、ダブルスともにベスト16進出を果たす。5日現在、世界ランキングはシングルス、ダブルスともに14位。
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(斎藤寿子)
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