西本恵「カープの考古学」第86回<高卒ルーキー百花繚乱編その9/“日本独立!”の朗報の中、カープの初戦は?>

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 昭和27年のカープは期待される高卒新人投手が、いきなり主戦投手となり、先発を任されることが多かった。いっぽう、この年、シーズン早々に日本国が独立を果たした。昭和27年4月29日のことだ。当然のごとく、当日の朝刊の第一面で伝えられた。

<きょう自由と獨立を回復>(「中国新聞」昭和27年4月29日)

 

 日本中が、待ちに待った一日であった。

 

 今回の考古学では、日本が独立を果たした当日の試合に注目してみよう。振り返ると、カープの誕生は、アメリカ占領下である昭和24年9月28日の中国新聞によって伝えられた。その時点では国家の主権はアメリカが担ったのは歴史の事実である。以来2年と半年の間は、占領下のプロ野球だったが、独立後最初に行われた試合が日本プロ野球チーム、広島カープとしての試合というわけだ。

 

独立後初戦が雨で中止に!?

 この日、大阪タイガース(略称は阪神)とのダブルヘッダーが組まれた。さあと、ばかりに観客も選手も試合開始が待ち遠しかったはず。ところが雨に降られ、2試合ともが中止となった。カープファンにとっては残念な一日となったのだ。

<広島総合球場で二十九日挙行予定の広島対阪神Wヘッダーは降雨のため中止>(「中国新聞」昭和27年4月30日)

 

 その翌日に予定されていた試合は、呉市二河球場での阪神戦でのシングル試合だった。呉市では年間多くの試合もあるわけではない(昭和27年シーズンは12試合)ことから、その試合だけはお天道様にたたられようが、たたられまいが、開催の意気込みはすごかった。

<なお、きょう三十日呉球場(二河)での試合は雨天でも順延されない>(同前)

 

 時代柄、まさに雨が降ろうとも、槍が降ろうとも、この一試合にかけるカープファンの意気込みはほかならぬものがあったことが推察される。これは、先のカープ移籍入団の野崎泰一が、当時、野球王国といわれた呉市待望のプロ野球選手であったからかもしれない。実は、この野崎の入団により、カープ創設の際に、出資した自治体からは必ず選手を入団させるという、まさに市民県民球団としてのシステムが完成するのである。カープ創設にあたり、出資した自治体は広島県をはじめ、広島市、呉市、福山市、尾道市、三原市ら1県5市による出資であった。この呉市出身の野崎の入団により、出資自治体の出身選手を入団させるという、県民市民球団のモデルともいえる図式が完成するのである(一覧表)。

「ウチの自治体では、予算を組んでやるゾ」

「ならば地元選手を入れなさい」

 地元選手を入団させることで、地元民が応援に来るはずだ――。当然ながらチケット売り上げも見込める。

 こうして県民市民球団としてのモデルを完成させたカープ。その中で、呉市出身の野崎泰一は、遂にそのモデルを完成させた選手となった。

 

 30日の試合に話を戻そう。先発は、広島がエース長谷川良平、阪神が眞田重蔵(当時の登録は重男)であった。眞田は昨シーズンまでは松竹ロビンスに在籍しており、このシーズンから阪神に移籍。とりわけ、前々年の昭和25年、セパ分裂初年度には39勝をあげ、松竹優勝に貢献した人物だ。昭和26年はひじ痛などから精彩を欠き、7勝に終わったが、阪神移籍を機に復活にかけていた。眞田は、この日はストレートに加え、変化球を駆使していた。

 

 いっぽうの長谷川良平も、名古屋軍からの勧誘を受け、キャンプ練習不在という珍事の後、ようやく上り調子となってきていた。両軍が1、2回をゼロ行進。投手戦が予想された中、3回表の阪神先取点のチャンスに、タイムリーを放ったのは投手・眞田であった。セパ分裂初期において投打の二刀流ともいえる存在であったが、眞田は自身のバットで、自らを助けた。

 

 試合は両者投げ合いで進む中、先に動いたのは阪神であった。眞田が復帰への不安もあり、阪神ベンチは早めの継投策に出た。

 

地元出身選手登場

 ピッチャー交代、駒田桂二——。

 眞田からマウンドを引き継いだ駒田が、カープ打線をぴしゃりと抑え込むと、8回表の攻撃で阪神はこの日の勝負を決定づけた。ランナーを置いた場面で、4番に座る藤村兄弟の兄・冨美男の長尺バットが火を噴いた。さらに5番の小島勝治もこれに続いた。

<藤村兄、小島(勝治)の連続長打で、決定的な二点を追加した>(「中国新聞」昭和27年5月1日)

 

 0対3と引き離され、勝負あったかにみえたが、カープも粘りをみせる。8回裏、ワンアウト後に代打・藤原鉄之助を送り込んだ。藤原が、じっくり見極めてフォアボールで出塁すると、紺田周三と、山川武範の連続ヒットで1点を返した。俄然沸き上がる、呉市二河球場だった。

 

 ついにここで、阪神が準備しておいたカードを切るのである。

 ピッチャー交代、藤村隆男――。

 阪神は、呉市という舞台に粋な演出、抑えに呉市出身の藤村兄弟の弟・隆男をつぎ込み、逃げ切りを目論むのである。

 

 呉市のファンの多くは、カープファンではあるが、呉市が生んだ藤村隆男にも声援が飛んだ。球場が沸き上がる中、カープのくせ者打者・武智修は、カウントツースリー(当時ママ)まで粘り、フォアボールを選んだ。ツーダンフルベースという、願ってもない場面に、大澤清がバッターボックスに立った。かの大沢親分こと、後の日本ハム監督・大沢啓二の兄である。さあ、一打同点か、とさらにファンは盛り上がった。

 

 ここで藤村隆男が踏ん張り、大澤をショートゴロに打ち取って勝負あった。9回表に阪神はダメ押しともいえる1点を加え、あえなくゲームセット。この日本の独立後最初の試合は、阪神がここぞという場面で、藤村兄弟が意地を見せた。ただ、なんと言っても、雨が降ろうとも、槍が降ろうとも、呉市でのプレーボールを望んだという野球熱が、カープ選手らはいうまでもなく、藤村兄弟らの好プレーを演出したのではなかろうか。

 

 さて、広島総合球場においての、日本独立の日4月29日に中止になったダブルヘッダーであるが、シングルゲームにして、5月1日に広島総合球場において、開催する運びとなった。当時のプロ野球は、スケジュールを組みながら進めていたことがうかがえるのであるが、4月29日のダブルヘッダーの入場券は、後援会によって会員の券が130円で販売されており、このチケットを5月1日の広島総合球場での阪神戦に転用できるとされた。ところが、ここに少しばかりの問題点があった。130円でダブルヘッダー2試合分が見られるチケットを転用したとしても、5月1日の試合は1試合しか見ることができない。

 

 これには、早めにカープの後援会が動き出した。

<すでに各支部を通じて販売された後援会員への会員券(百三十円)は各支部において五十円を払戻し、八十円とされるよう後援会事務局では望んでいる>(「中国新聞」昭和27年4月30日)

 実に理にかなった話だった。2試合分の観戦料である130円のチケットが、1試合となったので、50円払い戻して80円としたのだ。この時期からであるが、カープ球団が財政的に苦労ばかりしてきた時代から、わずかながら余裕も生まれて、払い戻しができるという、次のステージへ移ろうとしていたことが窺える。

 

 さあ、5月1日は、広島総合球場へ戻っての阪神戦である。この日、予定されたカープの先発は高卒新人で、開幕戦勝利を飾った大田垣喜夫がマウンドに立つ。この頃からであるが、ここ一番で粘りのピッチングを見せる大田垣は、エース長谷川に次ぐ存在になっていた。日本独立後のカープの2試合目の勝負はいかに——。大田垣のピッチングにご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和27年4月29、30日、5月1日)、『カープ50年~夢を追って~』(中国新聞社)

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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