「彼の強さは行動力のあるところ。自分の意志をはっきりと表に出すことができることですよ」
 日本男子代表コーチを務める丸山弘道は、藤本佳伸というプレーヤーをこう評する。2005年の「ワールドチームカップ」で初めて藤本のテニスを見た丸山は「パラリンピックを目指している」という彼に、自らがコーチを務めるテニストレーニングセンター(TTC、千葉県柏市)に練習拠点を移すことを勧めた。とはいえ、仕事や生活のこともある。そう簡単に決められることではない。丸山は徳島の実家で暮らす藤本が、自分の元へと来る可能性は五分五分と見ていた。ところが、藤本は約1カ月半後には千葉での一人暮らしをスタートさせたのである。その行動の早さにはさすがの丸山も驚きを隠せなかったという。だが、これだけの行動力がなければ、今の藤本はない。なぜなら藤本のテニス人生を支えている数々の出会いは、こうした彼のスピーディな行動による産物にほかならないからだ。
「パラリンピックに出場する」と決意したシドニーオープンから帰国した藤本は、練習場所を探すことから始めた。彼が通うクラブは週に1度。しかも体育館での練習だった。それだけに他の練習場所が彼には必要だったのだ。車いすテニスの存在を教えてくれたリハビリの医師に相談すると、早速自分が通っているスクールに話をしてくれた。スクールにとって車いすテニスの指導は初めてだったが、快諾してくれたという。そして、藤本はそこである一人のコーチと出会う。安藤司だ。藤本にとって初めての専任コーチである。

 訊けば、安藤は藤本と同じ年齢だという。しかもよくよく話をすると、鳴門高校出身だというのだ。時を同じくして鳴門高の門をくぐっていた2人だったが、当時は1学年12クラスもあった。さらに2年になると文系と理系で校舎が分かれるため、文系の藤本と理系の安藤が知り合う機会は皆無に等しい。お互い顔を見てもわからないのは仕方のないことだった。
 岡山の大学に進学した安藤は卒業後、鳴門へと戻り、テニスコーチの道を歩み始めた。その最初の就職先に現れたのが藤本だったのだ。安藤にとっても車いすテニスは初めての経験。指導は試行錯誤の連続だった。

「2バウンドまでOKという以外はルールも使う道具やコートも全て同じですから、車いすテニスもテニスであることにかわりはないと思ってプライベートレッスンを引き受けたんです。でも、やってみて初めて車いすテニスの難しさを知りました。まずはチェアワーク。ボールのバウンド先まで漕いで、打って、方向転換して、また漕いで……。とにかく忙しい。特にバックで打った時は一度、相手に背を向けて車椅子を回転させなければいけない。一般のテニスで相手に背を向けることはまずありません。それがいかに大変か……。そして息つく暇もなく、ボールが飛んできますから、それを追わなければいけない。しかも、相手が打ったボールを見ながら車椅子を漕いでいては間に合いませんから、ボールの軌道をイメージしながら漕ぐんです。これは相当難しいですよ。それにボールに対する入り方、打つタイミングなども車いすテニスならではのものがあります。もう、最初はとにかく手探り状態でしたね」

 藤本はテニスのイロハを安藤から学んだ。車いすテニスのビデオを観てもらい、安藤からいろいろなアイディアをもらいながら、自らも知り合いを通じて岡山や広島、神戸などの練習会に参加し、車椅子の操作やセッティングなどを研究した。特にセッティングは藤本にとっては重要だった。脊髄損傷の藤本は両足の踏ん張りや腰の回転が効かない。そのため、ベルトやフレームでしっかりと下半身を固定させることで、体のブレをなくしている。それが上半身のパワーの源となる安定した土台を築いているのだ。藤本は同じ脊損のプレーヤーから教わりながら、自分に合うセッティング方法を模索した。
 こうして約1年、藤本と安藤の二人三脚でのレッスンが続いた。藤本が安藤に一番に教わったのはテニスという競技の楽しさだったという。藤本がその後、ますますテニスに熱中するようになったのは安藤というコーチの存在が大きく影響していることは想像に難くない。

 敗戦によるレベルアップ

 テニスを始めて1年が経った頃、藤本は海外への大会に参加したいと考え始めるようになった。そこでペアを依頼したのがシドニーオープンで知り合った同じ脊損の車いすテニスプレーヤー多賀正昭だ。親子ほど年の離れた多賀とペアを組むことで、藤本はテニスの奥義を学んだ。
「その頃はとにかくがむしゃらなテニスをしていました。ゲームの展開を考えずに、ただバンバン打っていた。でも、それでは試合に勝てないということを教えてくれたのは多賀さんでした」

 2人で初めて練習を行なった日、多賀は藤本の素質の高さに驚いたという。
「テニスを始めてまだ間もないというのに、いいボールを打っていましたよ。もちろん、チェアワークはまだまだでしたし、ゲームの組み立てもできていなかった。安定はしていないのですが、しっかりととらえた時のボールは『おっ、こんなの打てるの!?』とビックリさせられました」

 2001年から約5年間、藤本は多賀と国内外の大会を回り、経験を積んだ。その中で、多賀が藤本のテニスに変化を生み出したきっかけとなったと考えている試合がある。8年前の大阪オープン決勝だ。第1セット、大差をつけて先取した多賀・藤本ペアは、第2セットの出だしもリードする。試合の流れは完全に彼らにあった。だが、多賀は藤本のプレーに緩慢さを感じていた。「試合はまだ終わったわけではない。勝った気になっていたらやられるぞ」と気持ちを引き締めるようにとのアドバイスを繰り返した。多賀の予想通り、途中、情勢が変わった。徐々に流れは相手へと移り、第2セットをひっくり返されると、そのまま最終セットも奪われ、逆転負けを喫した。

「まだ、経験が浅かった藤本は1セット目を取った時点で勝ったつもりになってしまったのでしょう。私もはじめは注意していましたが、2セット目の途中からわざと何も言わないことにしたんです。その頃、私は40代でしたから年齢的にも、試合で勝つことよりも半分は藤本を指導する気持ちでペアを組んでいました。そういうこともあって、『痛い目にあえば、簡単には勝てないということがわかるだろうし、いい経験になるかな』と思ったんです。そしたら案の定、ミスが続いて負けました。でも、藤本にとってはステップアップするためのいい反省材料になったと思うんです」

 当の本人は多賀と過ごした時期についてこう振り返った。
「ただ思いっきり強く打ちたいという気持ちが強かったので、多賀さんにはよく『いくら1本、気持ちよく決めても、それ以外はミスをしたり、相手にやられてしまったら何もならない。もちろん、チャンスの時は思いっきりいくことも大事。でも、時には一つ間を置いて相手にミスを誘うようなボールを打ったりすることも重要だぞ』と言われました。確かにテニスって、自分から取りにいくポイントよりも、相手にミスを誘ってのポイントの方が実は大きな割合を占めていることも少なくないんですよね。多賀さんとやらせてもらっていた時に、自分のテニスが変わったんじゃないかなと思います」

 コーチを驚かせた決断力

 こうして自ら行動を起こすことで出会った人たちに支えられながら、藤本はメキメキと頭角を現していった。05年には国内ランキングは2位にまで浮上した。同年、藤本は「デビスカップ」に相当する世界国別対抗戦「ワールドチームカップ」のメンバーに選ばれ、初めて日本代表入りを果たした。そして、これが藤本にとって大きな転機となる。

 オランダでの大会期間中、藤本は日本代表コーチの丸山とじっくりと話をする機会があった。その頃、藤本は3年後の北京パラリンピック出場を目指していた。だが、満足に練習場所が確保できず、悩んでいた。そのことを打ち明けると、丸山から思いがけない提案が出された。
「本気で北京を目指すんだったら、うち(TTC)に来ないか?」
 この大会で初めて藤本のプレーを目にした丸山は、世界との差を感じつつも将来性を感じていたのだ。

「正直、他の選手と比べても体の状態は決していいわけではありません。しかもテニス歴は5、6年と短い。それなのに、よくこのレベルまで上げてきたなと思いましたよ。技術的に課題はたくさんありましたが、『こうすれば、レベルアップするだろうな』という予測はできました。フィジカルも器械体操をやっていたこともあって体つきはよかったのですが、まだまだ鍛える必要がありました。でも、だからこそ逆に体ができれば、さらに動きもよくなるだろうなと」

 丸山からの誘いに、藤本は興奮したに違いない。前年のアテネパラリンピック、ダブルスで金メダルに輝いた国枝慎吾と斎田悟司という世界トッププレーヤーと同じ環境で練習することができるのだ。北京への道が険しいことに変わりはなかったが、それまで薄暗かった道に光がさしこんだような気持ちになったのではないか。その興奮ぶりは藤本の言動にはっきりと表れていた。

 流行る気持ちを抑えられず、藤本は帰国を待たずして、オランダから実家に電話をした。コーチからの誘いを話すと、「オレは行きたいと思っている。ちょっと考えておいて」と言って、その場は電話を切った。この時、既に藤本の心は決まっていたと言っていい。たとえ誰に反対をされても気持ちは変わらなかっただろう。とはいえ、生活を支えてくれた両親を無視するわけにはいかない。とにかく自分の気持ちを素直に話し、両親の返事を待った。

 藤本は「ワールドチームカップ」からそのままフランスへと飛んだ。そして、そこでの試合を終え、帰国した藤本を待ち受けていたのは両親からの温かい言葉だった。
「やりたいんだったら、いいんじゃない?」
 藤本はほっと胸をなでおろしたことだろう。もう、何も迷うことはない。すぐに丸山に電話をした。
「そちらに行くことに決めました」
 藤本の決断の早さに、慌てたのは丸山だった。

「あまりにも決断が早いので、『本当にちゃんと親と話し合ったのか? 慎重になれよ』と言ったんです。藤本が徳島の実家を離れて、遠い千葉での一人暮らしをするのはそう簡単なことではありません。こちらとしても、住居はもちろん、仕事についても全面的にサポートしようと思っていましたから、生半可な気持ちで来てもらって、途中で戻るなんてことになったら、お互いに大変なエネルギーを無駄にしてしまう。だからもう一度、よく考えるようにと言ったんです」

 だが、藤本の気持ちは既に固まっていた。そして、そのことを丸山もまた感じていたという。それから間もなく、千葉県柏市で藤本は一人暮らしをスタートさせた。それはオランダでの話し合いから、約1カ月半後のことだった。北京パラリンピックまで3年。目標の舞台を目指し、必死にボールを追いかけながら、藤本はテニス漬けの日々に幸せをに感じていた。

(最終回につづく)

藤本佳伸(ふじもと・よしのぶ)プロフィール>
1976年5月13日、徳島県生まれ。小学3年から器械体操を始め、県内随一の名門・鳴門高に進学。しかし、2年時に鉄棒から落下し、下半身不随に。その後は車いす生活を余儀なくされる。大学卒業後、23歳から車いすテニスを始める。より高いレベルを目指し、2005年に千葉県に生活の拠点を移し、パラリンピアンを数多く輩出しているTTC(テニストレーニングセンター)に通い始める。08年北京パラリンピックに出場し、シングルス、ダブルスともにベスト16進出を果たす。19日現在、世界ランキングはシングルス、ダブルスともに14位。
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(斎藤寿子)
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