開始15分間のサッカーにはいささか度肝を抜かれた。出し手、受け手に加えて第三の選手が攻撃にからむ。結成当時、永井の速さ以外に武器が見当たらなかったチームは、どこからでも決定的な形をつくれる集団に変貌を遂げていた。早い時間帯で先制点を奪えたことで、そこからはペースとレベルを落としてしまったものの、いい時間帯のサッカーは、これならば五輪でもメダルが狙えると確信させてくれるものだった。
 それにしても、自信とはかくも短期間でかくも大きく選手を変えるものなのか。

 札幌での日韓戦でA代表に抜擢された時の清武はよく言えば初々しい、厳しい言い方をすれば周囲への遠慮を捨てきれない選手だった。だが、次の北朝鮮戦での彼は、まるで数年前からA代表に名を連ねているかのようだった。そして、本来の居場所であるU−22に戻ってきた時、彼は将軍とでも呼べそうな風格を漂わせていた。

 清武が攻撃の軸として一本立ちしたことで、日本の攻撃には迷いがなくなった。先制点の場面、扇原からクサビのボールを受けた東は、清武に落とした時点で、リターンが来るのを確信していたはずである。2点目のアシストを決めた永井も、これしかないというタイミングでオフサイド・ラインを破り、清武からのボールを受けた。いずれの場面でも、清武ならば出してくる、といった受け手の確信がかいま見えた。

 圧倒的に攻めながら2点しか取れなかったことには、不満を覚える人もいるかもしれない。しかし、忘れてはならないのは、マレーシアもまた素晴らしかったということである。止めて止めて止めまくったGKカイルルに、アトランタ五輪での川口能活をダブらせてしまったのはわたしだけだろうか。代表チームでありながら、ひとつの単独チームとして国内リーグに参加していたというマレーシアは、素晴らしい一体感と完成度を感じさせるチームだった。

 チームとして国際舞台を経験し、かつ個人が世界のトップリーグでプレーするようになったことで、日本のサッカーは急速な発展を遂げつつある。ならば、マレーシアの選手たちの何人かがJリーグでプレーするようになれば、彼らもまた劇的な変化を遂げるかもしれない。特に、右サイドで危険な切れ味を見せたザカリアなどは、今後の経験次第ではアジアはもちろんのこと、世界に名を馳せる選手となる可能性もあると見た。新たな息吹が芽生えつつあるのは、どうやら日本だけではないらしい。

<この原稿は11年9月22日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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