2009年、10年と日本一の座をかけて行なわれる日本リーグ(男子)で連覇を果たすなど、日本のバドミントン界を牽引する日本ユニシス。所属する11名の日本人男子選手のうち、日本代表はなんと10人(Bチーム含む)を数える。まさに精鋭たちが集うエリート集団だ。なかでも花形である男子シングルスで今、最もオリンピックに近い位置にいるのが山田和司である。
「バドミントン一家」――山田家は、この言葉がピタリとあてはまる。バドミントン経験者で、地元のジュニアクラブの指導者だった両親をもつ山田は、子どもの頃から2つ上の姉とともに同クラブに所属し指導を受けてきた。
「小学3年の時に親に誘われて、クラブに入ったんです。親がコーチだったので、ちょっと嫌だなとは思いましたけど、それまでスポーツは何もしていませんでしたし、特にやりたいこともなかった。だから、入ったからにはやるしかないかな、という感じでしたね」

 クラブは週に3日。それ以外の日には両親からのレッスンが行なわれた。自宅、学校、体育館を往復する毎日。山田の記憶にはラケットを握らない日はほとんどないというほど、バドミントン漬けの毎日だった。帰宅するのはいつも夜の9時に近かった。軽く夕食を済ませた後、眠い目をこすりながらなんとか宿題を終わらせた。後はお風呂に入って寝るだけ。友達と遊ぶ時間も、テレビを観る時間も、ほとんどなかった。だが、それに対する不満は山田にはなかったという。とはいえ、バドミントンに夢中になっていたわけではなかったようだ。
「他にやりたいことが見つからなかった」
 その頃の山田のバドミントンを続けていた理由は、ただそれだけだった。

 そんな山田がバドミントンに目覚めたのは中学に入ってからだった。「バドミントンしか知らないから」という理由で他の競技への誘いを断り、バドミントン部に入部した。だが、部員は3年の姉と自分だけの2人。さらに指導者もいなければ、練習場所も地元の角野中学にはなかった。いったい、どういうことなのか。

「実は角野中にはバドミントン部はなかったんです。それを姉が頼み込んで名前だけつくってもらった。そこに僕が入ったというわけです。練習は同じ市内にある他の中学校でやっていました。姉の卒業後、部員は僕一人でした。毎年、『バドミントンをやりたい』という子がいたんですけど、顧問も練習場所もなかったですから、学校に迷惑をかけてはいけないと未経験者の子はお断りしていたんですよ。だから僕が卒業したと同時に、バドミントン部はなくなったと思いますよ」
 つまり、山田姉弟は角野中史上2人だけの“幻のバドミントン部”というわけだ。

 さて、小学生時代はバドミントンがあまり好きではなかったという山田だが、中学ではは夢中になってシャトルを追った。その理由は新居浜市内にあるいくつかの中学校のバドミントン部を合同練習というかたちで一手に引き受けていた西原隆のおかげだった。もし、西原に出会わなければ今の山田は存在しなかった。そう言っても過言ではないだろう。熱心な西原の指導の下、山田はメキメキと頭角を現していった。

山田和司(やまだ・かずし)プロフィール>
1987年2月21日、愛媛県生まれ。両親がコーチを務める「新居浜ジュニアバドミントンクラブ」に通い始めた小学3年からバドミントン一筋。中学2年時には全国中学校総合体育大会に出場した。小松原高、日本体育大では遠藤大由(現・日本ユニシス)と共にエースとして活躍。大学4年時(2008年)にはインカレで男子シングルスを制覇した。09年、日本ユニシスに入社。同年12月に行なわれた全日本総合選手権大会で3位となり、昨年の世界選手権では日本人として男子シングルスで30年ぶりのベスト8に進出した。現在、日本代表としてロンドンを目指し、国内外の大会を転戦している。3日現在、日本ランキング3位、世界ランキング28位。






(斎藤寿子)
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