「オマエには感謝している」――今年、山田和司が中学時代の恩師・西原隆と初めてお酒を酌み交わした時のことだ。恩師からの思いがけない言葉に、山田は驚きを隠せなかった。
「そんなこと言われると思っていなかったので……。僕の方こそ感謝しているんですから」
 そう言って少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに笑みを浮かべた。果たして恩師が感謝している理由とは――。
「私の口癖は昔から『愛媛から世界へ』なんです。山田が中学時代にもよく『このメンバーから世界へ出るんだ!』と言っていたんですよ。それを彼は本当に実現してくれたんですからね。やればできることを教えてくれました」
 愛媛県出身者として初めて日本代表入りを果たし、日本バドミントン界を牽引する存在として世界を相手にしている教え子の存在が今、西原の励みになっている。
 西原が山田を初めて見たのは、山田が小学6年の時だった。
「特に印象という印象はなかったですよ。2つ上のお姉さんを指導していたこともあって、彼女の弟さんという感じ。おとなしい子だなと思いましたね」
 新居浜市内の中学生を一手に引き受けていた西原は、1年後、角野中学に入った山田を指導し始めた。しかし当時、他の子よりも身長が低く、特にずば抜けて運動神経がよかったわけではなかった山田は、目立った存在ではなかった。「特別に器用というわけではないが、ラケット操作に長けているし、鍛えれば上達するだろう」。西原にはそんなふうに映っていた。

 西原の指導は熱血そのものだった。「でき得る限り質のよいバドミントンを見せたい」という考えから世界のトップ選手のビデオを生徒に見せ、自らもそれを基に研究して指導にいかした。山田には当時世界のトップ選手で、2000年シドニー五輪銀メダリスト、01年世界選手権覇者のヘンドラワン(インドネシア)という選手のプレーを参考にした。
「ヘンドラワンはそれほど身長が高い選手ではなかったですし、パワーではなく、つないでつないでチャンスを待つという山田のプレースタイルと似ていたんです。そこでヘンドラワンのショットの打ち方や移動の仕方を身に着けさせました」

“できるまで付き合う”のが西原流。「これができるようにならなくちゃ、世界には通用しないぞ!」。連日のノックで山田の体に染み込ませた。西原いわく、山田は決してすぐに何でもできるようなタイプの選手ではなかった。だが、「コツコツと継続して積み上げていくことができる」力は突出していた。それが山田の強さでもあった。途中、集中力を失う生徒もいる中、山田はできるまで必死にシャトルを追いかけた。

「西原先生はすごく熱い先生でした。僕ができるようになるまで、ずっとノックをやり続けてくれました。できなくても怒るようなことはほとんどありませんでした。でも、できるようになるとほめてくれるんです。先生が付き合ってくれたからこそ、僕も上達することができた。先生がいなければ、僕はバドミントンを続けられていないと思います」

 父の怒りを鎮めた姉の言葉

 そしてもう一人、山田のバドミントン人生には欠かすことのできない人物がいる。2つ上の姉・紘実だ。
「小学生の頃は、もう2人してケンカばかりしていましたよ。特に和司は、紘実にバドミントンで負けては泣いていましたね」と母・祐子が語るように、バドミントンを始めた当初、山田にとって最大のライバルは姉だった。もちろん姉・紘実も弟に負けるわけにはいかないと容赦はしない。いつも負けるのは体の小さな山田だった。お互いに「子どもの頃は嫌いだった」というほど、ライバル心をむき出しにしていた。

 そんな姉が中学を卒業すると実家を離れ、福岡県の高校へと越境留学した。すると、それを機に2人の距離はグッと近づいた。
「紘実が家を出てから、よく2人で電話で話をしていたみたいですよ」と母・祐子。いつの間にか、山田にとって姉の存在はライバルからよき相談相手となっていたようだ。そして山田が姉に対して今も頭が上がらないのは、こんなことがあったからだ。

 山田家にとっては伝説となっている試合がある。山田が中学3年の時の四国大会だ。
「他に勝った試合もあるのですが、あまりにもインパクトが強過ぎて……。この大会が一番印象に残っているんです」と西原。恩師の脳裏に今も残っている伝説とは――。

 前年、既に全国中学総合体育大会(総体)に出場していた山田は、当然、その年も全国の舞台へ行くものと期待されていた。山田自身も絶好調を維持しており、全国大会の出場権が得られる四国大会での3位以内は確実だと思われた。準々決勝まで順当に勝ち上がった山田は、準決勝で香川県覇者と対戦することとなった。山田は愛媛県予選で優勝しており、これが事実上の決勝戦。確かに強い相手ではあったが、決して勝てない相手ではなかった。ところが、である。試合途中から山田のプレーに異変が生じた。速さが最大の武器である彼の動きが、徐々に鈍くなっていったのだ。結局、負けを喫した山田は、正念場の3位決定戦でも完敗。いったい、彼の体に何が起きたのか。

「直接の原因かどうかはわかりませんが、どうやら水分を摂り過ぎたようなんです」と母・祐子は語る。当日、夫婦はインターハイに出場した娘の応援で行っていた熊本から愛媛へと帰り、自宅で少し仮眠をとった後、息子の応援に徳島へと向かった。そのため、いつもは母・祐子が行なっていた水分補給などの体調管理をすべて顧問の先生に一任したのだという。熱中症などを意識してのことだろう、顧問の先生は山田に十分に水分を摂るように指導した。しかし、それが少し度が過ぎてしまったようなのだ。

 3位決定戦の途中、全く試合になっていない息子に激怒した父親は、母を置いて一人で帰ってしまったという。
「その時のお父さんのお怒りはものすごかったですよ。もう天を突き抜けるほど、ご立腹状態でしたから……」
 赴任先の中学校の顧問として会場に来ていた西原は、怒り心頭の父親の姿が未だに忘れられない。それほど、父親は激怒していた。結局、3位決定戦で負けを喫した山田は前年に続いての全国大会出場には至らなかった。

 恐る恐る山田と母親が自宅に戻ると、先に帰っているはずの父親はまだいなかった。実は高速道路のカードも十分な現金も持っていなかった父親は、下道で帰らざるを得ず、高速で帰ってきた山田と母親が先に着いてしまったのだ。
「今だから笑い話ですけど、僕らの方が先に着いているもんだから、父は余計にイライラしていましたね。『そんなんで負けるくらいだったら、バドミントンを辞めてしまえ!』って。もうメチャクチャ怖かった。僕はずっと布団の中にくるまっていました(笑)」

 しかし、日が経つにつれて父親の怒りもおさまっていった。当時、山田はジュニアオリンピックを控えていた。ジュニアオリンピックは中学2年までの部と、中学3年から高校3年までを対象とした部があり、総体、インターハイの上位進出者、そして各県予選を突破した者だけが出場できるレベルの高い大会だった。山田は総体には行けなかったものの、県予選で優勝し、初の出場権を得ていた。
「ジュニアオリンピックがあることで、父も考え直したのだろう」
 当時の山田はそんなふうに思っていた。

 だが、父親の頭を冷やしたのは、実は姉・紘実だった。母・祐子はこう語る。
「どうやら四国大会からの帰り道、夫は紘実に電話をしたようなんです。そしたら紘実がこう言ったそうです。『私も自由にやらせてもらっている。和司にも同じようにやらせてあげて』。この言葉で、夫は少し落ち着いたようですね。自宅に戻った時、完全に怒りがおさまっていたわけではありませんでしたが、それでも少しは和らいでいたようです」

 山田がこの事実を知ったのは高校に入ってからだった。誰に聞いたのかは定かではないが、姉の存在に素直に感謝した。
「父に怒鳴られて、正直、僕は半分『もう、どうでもいいや』って思っていたんです。だから、お姉ちゃんが父を説得してくれていなかったら、もうそこでバドミントンを辞めていたと思いますし、今の僕はなかった。本当にお姉ちゃんには感謝しています」

 中学卒業後、山田は埼玉県にある強豪・小松原高校への進学を志望した。だが、はじめ両親はあまり賛成ではなかったという。なぜなら、同じ埼玉県にあるライバル校の埼玉栄高校に全国から優秀な選手がこぞって入るという話を聞いていたからだ。つまり、県内での競争激化で全国への門がより狭くなることを懸念したのだ。しかし、この時もまた両親を納得させたのは姉・紘実の言葉だったと母・祐子は言う。
「『和司の人生なんだから、和司の好きなところに行かせてあげて』という紘実の言葉が決め手でした。それがなかったら、和司を小松原には行かせなかったかもしれません」
 周囲からの支えがあってこそ、今の山田和司がいるのだ。

 小松原高校に合格した山田は中学校の卒業式の日、実家を離れた。
「紘実の時は、和司がいたのでまだ寂しさは紛れたのですが、和司の時はやっぱり寂しかったですね。『卒業式の日に行ってしまうんだなぁ』と、一日一日とその日が迫ってくるのがなんとも寂しかった。和司はすぐにインドネシアへの遠征を控えていましたから、夫とは遠征に行かせたつもりでいよう、と話をしていたんです。ただ、そのまま帰ってこないだけだと……。当日の夜、夫婦の会話はなかったですね。お互いに何か言葉を口に出したら、余計に寂しさがこみあげてくると思ったんでしょう」
 夜行バスに揺られ、15歳の山田は一人、埼玉へと向かった。それは世界に続く大海原への旅立ちでもあった。

山田和司(やまだ・かずし)プロフィール>
1987年2月21日、愛媛県生まれ。両親がコーチを務める「新居浜ジュニアバドミントンクラブ」に通い始めた小学3年からバドミントン一筋。中学2年時には全国中学校総合体育大会に出場した。小松原高、日本体育大では遠藤大由(現・日本ユニシス)と共にエースとして活躍。大学4年時(2008年)にはインカレで男子シングルスを制覇した。09年、日本ユニシスに入社。同年12月に行なわれた全日本総合選手権大会で3位となり、昨年の世界選手権では日本人として男子シングルスで30年ぶりのベスト8に進出した。現在、日本代表としてロンドンを目指し、国内外の大会を転戦している。3日現在、日本ランキング3位、世界ランキング28位。






(斎藤寿子)
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