「200万円ですか?」と、さすがの僕も聞き直してしまった。
 場所は自転車の展示会、仕事を終えて何気なく会場を歩いていると、目に留まった木製のバイク。マホガニーバイクだ。カーボンやチタンがスポーツバイクの中心というご時世で、木目の綺麗なバイクは明らかに他とは違った魅力を醸し出していた。思わずじっくりと見て、触って……何気なく聞いた値段の答えがそれだったのだ。もちろん高級車であることは理解できるし、100万円前後のバイクはどこのメーカーにでもある。しかし、200万円とは〜。数々のバイクを見てきた私も正直想像できなかった価格だった。
(写真:マホガニーバイクで疾走!)
 値段を聞いてビビッている僕に「乗ってみますか?」とありがたい声がかかる。「こんな機会は2度とない」と興味本位でテストライドに。バイクが柔らかいことに戸惑いも感じながらも、そのスムーズさに驚く。明らかに今まで乗っていたバイクとは趣向が違うのが印象的な試乗だった。「白戸さん、興味があるなら大会に使ってみてよ」と柔らかい笑みを浮かべ、驚くような提案をしてくれたのがこのバイクを作っている佐野末四郎氏。江戸時代から続く造船所の船大工さんだ。趣味が高じて自転車を作り始め、その高い技術で、実戦で使えるバイク作りに取り組んでいる。その日は「機会があったらぜひ」と要領の得ない返答をした僕の心の片隅には、ずっとあの乗り心地が引っ掛かったまま数年が経過した。
(写真:製作者の佐野末四郎氏)

 今年の夏、肩の手術をした僕は、10月の「ハワイ・アイアンマン世界選手権」出場に向けて悩んでいた。まだ肩がまともに動かず、おまけに長い時間バイクに乗ると肩が固まって動かなくなってしまう。身体に優しいバイクでないと180?を乗り、42?を走るのは難しい。そんな時にふとあのバイクを思い出したのだ。すぐに佐野さんに連絡を取り、乗せていただくことになった。「このバイクは乗り方が全く違うから短期間では乗りこなせないよ」と、かなり脅されて走ってみると、その感覚の違いにやはり戸惑う。通常のバイクは人間が踏み込んだ力を、できるだけロスしないように固いフレームで車輪に伝える。ところがこれは踏み込んだ力でバイクをたわませ、それが返ってくるのを力に変える。つまり通常はしならないことを「良し」としているフレームを、たわませて走らせるというまったく逆の発想。柔らかい木の特徴を生かしたつくりになっている。

「飾りものの自転車を作るつもりなんて全くないんです。本当にスポーツ車として使える完成度でないと意味がない」と語る佐野氏。さらに「木がカーボンやチタンの真似事をしても敵うはずがない。木は木の良さを使ったバイクがあるはず」と、そのコンセプトを説明する。そんな心意気で作っているうちに前出の理論にたどり着いたそうだ。確かに木で製作されたバイクは国内でも海外でもある。しかし、それらは実戦で使えるようなものではなく、「木製」という物珍しさだけがアピールされていた。「僕の目指すのはレースで使える木製バイクです」との語気には、木を知り尽くした職人らしい自信とプライドを感じさせた。

 そんな佐野さんの思いが詰まった1台で、ハワイ・アイアンマンに乗り込んだ僕は人々の注目を集めることになった。どこに行っても人に囲まれ、写真攻め、質問攻め。「本当にこれで出場するのか?」という問いかけに何度、「もちろん! このバイクはすごいぜ」と答えたことか。大会でちゃんと走らないと、このバイクが「使えない」という評価を受けてしまう。なんとなく今までにないプレッシャーを受けながらスタートすることに。そんな心配をよそにレース中、バイクは何の問題もなく、気持ちよく走り続けた。懸念されていた肩の痛みや固まり具合も問題なく、僕の身体を優しく運んでくれる。さすがに術後、練習開始したばかりのタイミングでのレースなので、いつものようにガンガンとは飛ばせないが、最後まで崩れることなく走りきれた。
(写真:バイクチェックイン時にはカメラに囲まれた)

 正直なところ、レース中はあまり違和感がなかったので、このバイクに乗っていることを忘れている時間がかなりあった。そのくらい普通の乗り心地なのだ。しかし、レースが終わって、掃除をしながらしみじみと眺めると、このバイクがいかに丁寧に作られているかがよく分かる。正直、僕には想像もできない作業の連続なのだろう。競技自転車というより、もはや美術品に近い。そんな魂の入った美しい作品に乗ることができた喜びをひしひしと感じた。
(写真:予想以上の出来にフィニッシュ後の充実した表情)

「いや〜、世界の舞台でこいつが問題なく走ってくれて、それを世界中の人々が見てくれてた。嬉しいですね」と喜ぶ佐野氏。「もう少し順応する時間があれば、まだまだ走れる実感もあったし、バイクの改善点も見つかりました」という僕のコメントに、「よし、次回はばっちり準備しましょう」と、さっそく次回作の構想へと熱いトークが始まる。この人に、この熱さががある限り、日本の匠によってマホガニーバイクは成長続けるのだろう。ただ、どんなにすごいバイクに進化しても、世界中でこれを作れるのはただひとり。やはり、こいつはどこまで行っても世界でたったひとつの芸術品なのかもしれない。

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦している。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための新会社「株式会社アスロニア」の代表取締役に就任。『仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか!?』(マガジンハウス)が発売中。
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