第176回 隣人

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 マンション暮らしをしています。隣人とは、まったく付き合いがありません。

 

 先週、その隣人が引っ越していきました。お名前も存じ上げない若いご夫婦。月に一度くらい、廊下で顔を合わせると挨拶する程度の関係でした。数カ月前、赤ちゃんが誕生したと、お目にかかった際に聞きました。

 

 引っ越しの2~3日後、私の家のドアノブに手提げの紙袋が掛かっていました。物騒な世の中です。一瞬たじろぎましたが、勇気を出して中を見てみました。お菓子のようです。紙袋には、小さな便せんが可愛いシールでとめてあります。

 

「〇〇〇に住んでいました■■(お名前)です。

居住中は大変お世話になりました。

心ばかりですが受け取っていただけると幸いです。

本当にありがとうございました。

お身体にお気をつけて」

 

 フルネームも連絡先も記されていませんでした。このかわいいギフトのお礼を言う手間をかけないようにした心配りと、拝察しました。

 こんなことがあるんだ、と涙が出るほど嬉しかったです。温かく優しいお隣のご夫婦が急に愛おしくなりました。

 

 柔道は1人ではできません。相手があってこそです。

 以前、柔道家の棟田康幸さんがこう話していました。

挑戦者たち・二宮清純の視点 棟田康幸氏・初瀬勇輔氏<柔道パラリンピアン>対談

 

伊藤: 「柔道は相手がいるからこそできるんだ」とおっしゃっていましたね。

棟田: そうですね。1人では強くなれないのが柔道です。

 

 いなくなって、気づいたことがあります。

 そういえば、こんな言葉を交わしたことも。

「表札の下の電球、昼は消したいのですが、スイッチはどこにあるかご存じですか?」

 入れ替えになった洗濯機、前より音が大きくなった時。「夕べうるさくなかったですか?」

「ゴミ置き場の電気が切れていて、ちょっと怖いですね」

 いろんな会話がありました。

 

 そういえば……。

 映画を見ている時、大音量になると、“お隣さんに迷惑!”と思ってボリュームを下げました。

 お隣の入り口ドア前に置き配の荷物があると、“気づいているかな?”と少し心配になりました。

 消防点検の日、緊急時にベランダの隣との壁を破って避難できることを聞き、“お隣さんに助けてもらえるなぁ”と顔を思い浮かべました。

 2~3カ月、顔を見ないと、“元気かな?”“お引越ししたのかな?”と想像していました。

 

 冒頭で「お付き合いはまったくなかった」と書きましたが、それはまったく違っていました。隣に人が住んでいることを常に感じながら暮らしていたのです。お隣の方がいることは、生活の一部だったのです。

相手がいることで成り立つのは練習や試合と同じこと。お隣の人を意識してこそ、生活が成り立っていたのです。一つの贈り物が、まったく気づかなかったことを教えてくれました。

 

 いなくなった隣人をとても懐かしく思い、そして感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>

新潟県出身。パラスポーツサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。STANDでは国や地域、年齢、性別、障がい、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション事業」を行なっている。その一環としてパラスポーツ事業を展開。2010年3月よりパラスポーツサイト「挑戦者たち」を開設。また、全国各地でパラスポーツ体験会を開催。2015年には「ボランティアアカデミー」を開講した。2024年、リーフラス株式会社社外取締役に就任。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ~パラリンピックを目指すアスリートたち~』(廣済堂出版)がある。

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