どん底で知った「誰かの支えがあって野球ができる」ということ ~岡﨑郁氏インタビュー~
現役時代、堅実な守備と勝負強いバッティングでファンを魅了した元読売ジャイアンツの岡﨑郁さん。長嶋茂雄終身名誉監督との思い出や、自身の野球人生を当HP編集長・二宮清純と語り合う。
二宮清純: 去る6月3日、巨人の長嶋終身名誉監督が逝去されました。プロ野球ファンはもとより、多くの国民に愛されたヒーローの訃報を受け、私たちも大きな悲しみに包まれました。
岡﨑郁: 長嶋さんとの出会いがなければ、今の私はありません。本当に感謝の思いしかありません。
二宮: 岡﨑さんは、高校野球の古豪・大分商業高校から法政大学に進学予定でしたが、長嶋さんが直接自宅に来たことで、巨人への入団を決意されたんですよね。
岡﨑: はい。授業中に先生から突然「すぐに家に帰れ」と言われたので、何事かと思って家に向かうと、玄関に2足の革靴が並んでいました。「ああ、今日はスカウトが2人も来ているのか」と思って中に入ると、座敷に長嶋さんが座っていたのです。スッと立ち上がった長嶋さんの姿は、まるで後光が差しているかのように大きく感じられ、圧倒されました。
二宮: 岡﨑さんにとって長嶋さんは、今まで見たこともない存在だったと?
岡﨑: それはそうですよ。私たちの世代は巨人のV9時代に育ってきて、長嶋さん、そして王貞治さんに憧れて野球を始めたわけですから。今で言えば、家に帰ったら大谷翔平選手(ロサンゼルス・ドジャース)が居間にいたという感じでしょう。
二宮: 長嶋さんからは何と言われましたか。
岡﨑: 頭が真っ白になってしまい、何を言われたか記憶が曖昧で……。ただ、入団後の話をされたのは覚えています。私はすでに法政大学への進学を決めていたのに、長嶋さんは隣に座るスカウトの人に「最初は寮に入るんだよな」とか、「背番号は何番がいいかな」などとどんどん話を進めていく。それでスカウトの人が、「彼はまだ巨人に行くとは……」と口を挟んだら、「じゃあ、契約金はどうしようか」と返していました(笑)。
二宮: 長嶋さんらしいエピソードですね(笑)。
岡﨑: それで家を出る際に長嶋さんは父親に向かって、「私はまだこの先10年、巨人の監督をやるつもりなので、その間に必ず一人前にてみせます。心配しないでください」と言ってくれました。
二宮: 岡﨑さんは、その場で入団の返事をしたのですか。
岡﨑: 即答はできませんでしたが、九分九厘観念していました。長嶋さんがこうして自宅に来られたということが何を意味しているのか、高校生でも分かりますから。ただ瞬間的に頭をよぎったのは、法政大学に何と言って断りを入れようかということでした。
二宮: 長嶋さんが直接家に来たとなれば、大学側も承諾せざるを得ないでしょう。
岡﨑: 最終的には自分から断りの連絡を入れ、球団にも大学に連絡をとってもらうようお願いしました。ただ、大学野球のプライドもあったと思うんです。今思えば、巨人に入団できたことは本当に感謝しかありません。ただ、その後、高校と大学の関係が悪くなったりしなかったか、少し心配しています。
二宮: プロの世界に入った最初の印象は?
岡﨑: とんでもないところに来てしまったなと。それこそ、高校時代は自分が一番うまいくらいに思っていましたが、次元が違いました。
二宮: 一番大きな違いは何でしたか?
岡﨑: スピードですね。ピッチャーの投げるスピードも、打球のスピードも、選手の走るスピードも桁違いでした。2軍のキャンプからスタートしたのですが、それこそ名前も知らないような選手たちが、自分よりもはるかにうまい。ウォーミングアップだけで1時間近くやるのですが、体力的にも全くついていけなかった。
二宮: そんなに違いましたか。大分商業も練習は厳しかったでしょう?
岡﨑: 厳しかったといっても、しょせん3時間から4時間程度の練習です。しかも、部員数が多くて非効率だったので合間に息が抜けました。一方、プロの練習は非常に効率的で休む暇がない。それでいて午前中に2時間やって午後も5時間。さらに夜間練習もやっていましたから、体力的に持ちませんよ。
二宮: 慣れるのにどのくらいかかりましたか。
岡﨑: 2年ぐらいかかりました。でも、慣れたといってもそれは2軍のスピード感です。1軍はランクが違いますから、2軍でトップクラスにならないと1軍への挑戦権はない。ましてや、当時の巨人は1軍と2軍の入れ替えが少なかったので、1軍はより狭き門になっていました。
二宮: 確かに当時の巨人の内野陣には、中畑清さんや篠塚利夫さん、原辰徳さんや河埜和正さんなど不動のレギュラーがそろっていましたからね。クビになるかもしれないという恐怖はなかったですか?
岡﨑: その時はまだありません。3年目と4年目に少しだけ1軍に行くことができたので、5年目に勝負をかけようと思っていました。ところが、その年のはじめ、自主トレを開始した直後に右の脇腹に激痛が走り、深い呼吸ができなくなりました。翌日、病院に行くと胸膜炎との診断で1カ月半ほど入院。当面の試合出場も見込めないということで、任意引退となりました。この時ばかりは、もうクビだろうなと覚悟しました。
(詳しいインタビューは7月1日発売の『第三文明』2025年8月号をぜひご覧ください)
<岡﨑郁(おかざき・かおる)プロフィール>
1961年6月7日、大分県大分市出身。高校野球の古豪・大分商業高校3年時に、春・夏の甲子園に出場した。79年のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受けた。入団6年目の85年から1軍に定着し、内野のユーティリティープレーヤーとして活躍。89年からに4年連続でオールスターゲ―ムに出場。ゴールデングラブ賞1回(90年)。日本シリーズ優秀選手賞1回(89年)、敢闘選手賞1回(90年)。95年の現役引退後は、2005年に米マイナーリーグにコーチ留学。06年から19年にかけて巨人の2軍打撃コーチや2軍監督、1軍ヘッドコーチ、スカウト部長等を歴任。現在は九州アジアリーグの大分B‐リングスでゼネラルマネジャーを務める傍ら、YouTubeチャンネル「アスリートアカデミア」を開設。元プロ野球選手や他競技の指導者と対談を行っている。プロ通算1156試合、906安打、63本塁打、384打点、打率2割6分。