16日、インドネシアのパレンバンで開催された東南アジア競技大会。日本人には縁遠い、普段ならまず報道されない大会だ。しかし、今年はワイドショーにまで登場した。きっと今回初めてこの大会名を聞いた人も多いだろう。その理由はもちろんマラソン種目に出場する「猫ひろし」。オリンピック出場の為に、国籍をカンボジアに変えての出場だ。カンボジアの今季国内記録である2時間31分58秒を目指したが、その記録を上回ることはできなかった。それでも2時間37分39秒の自己記録更新。今大会での代表内定はならなかったが、ライバル選手の今後の結果次第では代表入りの可能性を残し、わずかに望みをつないでいる。
 数年前から、「カンボジア人になってオリンピックに出る」と夢を語っていた彼が大きくコマを進めているというわけだが、世の中にはいろいろな反応があるようだ。「スポーツを冒涜するな」「売れない芸人の売名行為」「カンボジア人にとって迷惑」など、ネット上では厳しい言葉で書かれている。確かに芸人がネタでやっているとするならば、他の選手にも失礼な話で、素直に応援するつもりにはならない。このネタのために出場できなくなる選手もいる訳で、批判意見も分からなくもない。また、ナショナリズムに関する批判もよく見られる。「日本を捨てた」「日本人としてのプライドがないのか」という類いのものだ。確かに二重国籍を認めない日本において、他国国籍を取得するということは日本国籍を捨てるということになる。生まれ育った日本の国籍を捨てるというのは簡単なことではないし、それがオリンピック出場のためとなると批判があるのも当然だろう。

 しかし、彼は真剣だ。数年前からの取り組みは半端ではなく、仕事が終わった後の夜中に皇居で30km走などを1人でコツコツとやっていた。こんなことを何年も繰り返していた彼の姿を知っている人なら、このチャレンジを「ネタ」とか「売名行為」などとは、とても言えない。芸人として走っている訳ではなく、1人のランナーとしてオリンピックというのを夢見ているのは、彼と会った人なら皆、理解しているはずだ。そもそも彼の腰の低さ、競技に向かう真摯な姿勢を見ていると、あのTVでふざけている姿が想像できない。そういえば昨年、私のお店にトライアスロンに出場するために整備に出していた自転車を彼が受け取りに来た。ところがいつものように馬鹿話をしていると、帰る頃には雨になってしまった。自宅は10km以上も離れている。後で取りにくるか、スタッフの車で帰るものだと思っていたら自転車に乗って帰るという。「危ないから梱包して送るよ」と言っても、「自分がレースで使うものだから」と譲らない。おまけに雨具も持っていないので、ごみ袋を被って走り去っていった。そんな男である。純粋で真面目なのだ。そんな彼がマラソンと正面から向き合っているのだ。

 国籍を変えるというのはスポーツの世界では珍しい話ではない。両親の国籍が2カ国にまたがる場合は比較的手続きが簡単なためよく聞く話だ。ただ、まだまだ国際結婚(そもそもこの言い方や概念がこれからにマッチしない?)が少ない日本ではあまり聞かないので、ちょっと違和感があるのも事実。でも世界的には自分の人生のためにベストな選択をして行くのは本人の権利であり、他人が批判するものではない。国籍を変えたから、日本を捨てた訳ではなく、今の自身をより生かせる選択をしただけで、日本の心を失った訳ではないだろう。むしろカンボジアに歓迎され、他の選手たちと仲良くしている姿を見ると、もうひとつ母国を持っているようでちょっと羨ましくも感じる。これからの時代、国籍の枠を飛び越え、地球人として活躍する人が増えてくるのは確実で、彼もそんな1人でしかないのだ。

 彼を批判する人のコメントを読んでいると、彼のように単純に夢を持ち、それに向かってなりふり構わず進んでいける人が羨ましいのかな、という印象も受ける。通常は躊躇してしまうハードルを、ある意味バカバカしい挑戦を、周りに惑わされることなく、一所懸命に取り組むあのフットワークが羨ましいのだと。そういう意味では、彼への批判は彼へのラブコールなのかもしれない。

 さて、猫ひろしのオリンピック出場はまだまだ分からないし、乗り越えるべきハードルはある。でも、彼には悪いけど、僕は結果よりも彼の挑戦する姿勢こそが、我々に勇気や刺激を与えてくれると思っている。だからどちらに転んでも彼が僕たちに教えてくれるものは沢山あるはずだ。
 猫さん、自分のために走り続けてよ。踏み出せない僕たちに刺激を与えてよ。僕たちは理屈を跳ね返すぐらいまっすぐに走るあなたの姿が見たいにゃー!!

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦している。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための新会社「株式会社アスロニア」の代表取締役に就任。『仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか!?』(マガジンハウス)が発売中。
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