監督には「勝負師」と「教育者」の2つのタイプがある。去る11月25日、心不全のため91歳で世を去った西本幸雄さんは、後者の典型だった。

 西本さんは鉄拳も辞さずの覚悟でダイヤモンドの原石を磨き上げ、日本シリーズに8回もチームを導きながら(大毎1回、阪急5回、近鉄2回)、しかし8回とも敗れた。そのため“悲運の闘将”と呼ばれた。
だが、本人は「オレは幸運だったと思う」と語り、こう続けた。
「確かにオレは日本シリーズで8回も負けたけど、強がりではなく後悔はない。自分のつくったチームが上り坂にあると感じる時の快感は優勝よりええもんよ」

 短期決戦に弱い理由については、こう語っていた。
「オレの場合、短期決戦は“早く勝ってしまいたい”という気持ちが強いあまり、ことごとくしくじってしもうた。しかもシリーズ中、“オレもよく、ここまでのチームをつくったもんや”と自己満足するもんやから、スキが出て引っくり返されてしまう。
 特に阪急の時がそうやったな。オレが鍛えた選手が、あのONと勝負しとるわけよ。もう、それ見ただけで涙出そうになったね。よう、ここまできたもんやと……」

 告別式に訪れた元阪急の盗塁日本記録保持者・福本豊は「人間、頑張ったら何でもできるということを教えてもろうた。鍛えていただいた。“オヤジ”“父ちゃん”。そんな感じやった」と神妙な面持ちで語った。
 考えてみれば福本はドラフト7位の入団。プロ入り当初は左打ちで俊足を活かそうと左方向へ流す練習ばかりしていた。これに怒ったのが西本さん。
「こぢんまりまとまるな。引っ張れんバッターじゃ、行き詰まるぞ」
この一言で福本は考えを改めた。トップバッターとしての先頭打者本塁打43本はNPB記録である。

 西本野球の原点は「反骨」だと思う。打倒セ・リーグ、打倒巨人――。阪急、近鉄の監督時代は、同じ関西を本拠地とする阪神に実力的には上回りながらも人気面では後塵を拝し続けた。
その反骨精神は太平洋戦争中、軍隊に入った頃のこんなエピソードからも垣間見える。
<われわれ新兵は、現地の将校や古兵のために、衣類、装備を身につけて運んだようなものだった。使い古した服や靴を渡され、サイズが合わないと申し出ると、「服や靴に体を合わせろ」と言われた。シビアな世界というよりも、滑稽だと思った>(『私の履歴書――プロ野球伝説の名将』日経ビジネス文庫)

 プロ野球の監督になってからも、日本シリーズでのスクイズ失敗を巡り、大毎・永田雅一オーナーと口論になり、解任された。阪急では指揮官としての是非を問うかたちで選手たちによる無記名の信任投票を実施した。これまでの球界の常識では考えられなかったような“事件”を次々と引き起こしている。
 監督生活20年で通算1384勝。これは歴代6位の記録である。

<この原稿は2011年12月18日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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