キャスターからスキッパー(指揮官)へ――。元ヤクルト栗山英樹の北海道日本ハム監督に就任した。

 栗山は1984年、ドラフト外で東京学芸大からヤクルトに入団。俊足と守備力を売り物にプロ3年目には107試合に出場し、規定打席不足ながら打率3割1厘をマークした。
 栗山にプロ入りを薦めたのは「プロ野球ニュース」のキャスターとして知られた佐々木信也である。以前、こんな話を聞いた。
「たまたまウチの息子の大学との練習試合を見に行ったら、彼がプレーしていた。こう言っちゃ失礼なんですけど、実力的にはレベルの低い学校でしたね。
 まぁ彼がピッチャーをやったりショートを守ったりと、ひとりで野球をやっているような感じでした。
“キミ、プロでやれるよ”と声を掛けたのは実は冗談半分だったんですけど、体の柔軟性には見るべきところがありました。それとプロでやっていけそうな何とも言えないような雰囲気を持っていましたよ」
 メニエール病などを理由に29歳で引退。その後は佐々木の跡を襲うようにスポーツキャスターの道を歩むのだから、人の運命とは不思議なものだ。

 栗山に初めてインタビューしたのは89年だから、今から22年も前のことだ。当時、国立大出身のプロ野球選手は珍しく、いきおいその話になった。
「ウチの大学は教員になるための大学だから、プロに入る時、ひとりとして賛成してくれる人はいなかったですね。
 もちろん親も大反対。父親が普通のサラリーマンで兄も学校の教員でしょう。プロ野球なんてとんでもないというわけですよ。
 でも、それまで僕は高校にしても大学にしてもすべて親の言うとおり選んできた。だから、最後だけは自分の悔いの残らないようにやりたいと。多少の意地みたいなものはありましたね。
 国立大学にしてみれば、ウチはそう弱いチームではなかった。甲子園経験のあるヤツもいて、大学の全日本選手権にも2回出ていますから。
 それで一応、4年の時に西武とヤクルトの入団テストを受けてみた。感触としては西武の方がよかった。でも結局は不合格。逆に難しいと思っていたヤクルトの方が採用してくれました。
 確か年棒が360万円で契約金が1000万円にちょっと欠けるぐらい。プロって契約すると1月からお金が振り込まれるんです。当時はまだ大学生ですから、月30万円の給料を見て、こんなにもらっていいのかと(笑)。
 なにしろ、大学の時は奨学金の2万円とアルバイトの3万円の計5万円で生活してたんですから。ええ、もう、普通の大学生ですよ。学習塾で中学生に数学を教えていたこともありました」
 プロ野球選手で学習塾のアルバイト、それも数学を教えていたなんていうのは栗山くらいのものだろう。今となっては懐かしいインタビューだ。
 テレビキャスターに転じてからの栗山の活躍ぶりは説明の必要もあるまい。

 この7月にはスポニチ紙上で対談の機会に恵まれた。
 不振のイチローについて訊ねると「空間認識能力が衰えているのかもしれない」と語った。
「ボールを追っかけていてジャンプした際、ボールの位置とズレて捕れなかった。これまでのイチローでは考えられなかったこと。打席での見逃し方もおかしい。ボールとの距離感に問題が出てるんじゃないかと……」
 外野手出身者らしい説得力のある分析だった。

 伝え聞くこところによれば、栗山は単身、北海道に乗り込むという。梨田内閣を、ほぼそっくり引き継ぐことになる。
 これはいいことだ。梨田内閣は決して失敗したチームではない。今季も2位を確保し、早々とCS進出を決めている。これまでのやり方を踏襲することがV奪回の近道だろう。

 日本ハムはフロントの方針が最も明確な球団のひとつである。ドラフトで好素材を獲得し、スープを煮込むように時間をかけてじっくりと選手を育て上げていく。
 その成功例が野手では中田翔や小谷野栄一、糸井嘉男だろう。
 元GMの高田繁によれば、監督、コーチ、トレーナーに加え、選手も含めた全体ミーティングで育成方針をまとめ上げるのだという。育成システムを支えるソフトウェアには約8千万円もの巨費を投じている。
 栗山はいい球団を選んだ。

<この原稿は2011年11月11日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものを再構成したものです>

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