車いすテニスと言えば、北京パラリンピック、シングルスで金メダルに輝いた国枝慎吾を真っ先に思い浮かべる人は少なくないだろう。国枝は男子のオープンクラスで世界の頂点に君臨している。女子では、史上最年少の中学1年で日本マスターズに出場し、国内首位を独走している上地結衣が現在9位にランキングしている。そして、この男女のほか、車いすテニスにはもうひとつ、クラスがある。3肢以上に麻痺がある重度障害のクアードだ。このクアードには、ゲームの中のプレーだけではないさまざまな勝負のポイントがある。クアードの中でも体の状態としては厳しい古賀貴裕。彼だからこそ知り得る、クアードプレーヤーの戦いの裏側に迫る。

 夏場の試合は灼熱地獄

 2011年2月、猛暑が続くシドニーでのオープン大会。古賀は対戦相手とはまた別に、もうひとつの戦いを強いられていた。
「ピピッ」
 コートチェンジの度に体温を測る古賀の目に飛び込んできたのは、体温計にマークされた「39.8」という驚異的な数字だった。どんなに冷やしたところで、体の熱は一向に下がる気配はない。頭が朦朧とする中、古賀はやっとの思いで体を動かしていた。車いすを漕ぐその手はあまりにも重く、コートチェンジさえ億劫に感じられた。

 実は古賀は、体温調節に不可欠な発汗機能が失われている。汗をかくことができないため、熱を外に出すことができない。外気と運動による内臓器官からの熱が体内にこもり、体温は上昇するばかり。放っておけば、生命の危険性もある。
「暑さ対策は本当に大変なんです。とにかく冷やすことが先決。試合直前まで冷房の効いた場所にいなければいけないし、試合中はもちろん、ウォーミングアップの時から体を冷やさなければいけません。冷やしているのに“ウォーミングアップ”というのも変な話ですが……(笑)。試合後はすぐにガンガンに冷房が効いた部屋に入ります」

 とはいえ、クアードクラスの選手が全員、古賀のように発汗機能が失われているかといえば、そうではない。逆に最近では汗をかくことのできない選手は少なくなってきているという。その中で古賀が世界の上位にランキングしているのは、やはり彼の努力の賜物である。

 選手によってテーピングの素材も巻き方も異なる。その飽くなき探究心が勝利に導くカギとなる。
この“クールダウン”のほか、古賀にとって勝敗のカギを握っているのがテーピングだ。テーピングといっても、故障した部分のカバーが目的ではない。握力が低下し、握ることのできない右手をラケットにグルグル巻きにして貼り付けるのだ。手の動きが変わり、スイングに影響するだけに、巻き方ひとつにも余念がない。「毎月、巻き方をかえるくらい」のこだわりようだ。

「もっといい巻き方があるんじゃないか、と常に考えていますね。今は手全体をグルッと巻いているんですけど、以前は人差し指を出したり、親指を出したりして巻いたこともあります。というのは、その方が少し“遊び”の部分ができて、ラケットを柔らかく使えるんじゃないかと思ったんです。でも、逆にラケットで壁をつくれず、面がブレてしまったのでやめました」
車いすテニスを始めて11年目。テーピングの巻き方は未だ試行錯誤が続いているというのだから、驚きである。

 選手とテニス車の微妙なバランス

 古賀は競技用車いすのことを“テニス車”と呼んでいる。そのテニス車には大きく分けて固定式と調整式の2種類があるという。固定式は全てが溶接されており、その名の通り高さや幅などが固定されている状態のものだ。一方、調整式は細かく調整できるようにネジで組み立てられている。選手は皆、競技を始めた頃は、どの高さや深さが自分にとってベストなのか、そのポジションを探し当てようと細かく調整する。そのポジションが確定した時点で、固定式に乗り換えるのだ。だが、そのポジション調整がいかに難しいかは、次の古賀のエピソードでもわかる。

 以前、古賀が調整式のテニス車を使用していた時のことだ。タイヤの車軸の位置をどれほど前に出すかで悩んだことがあった。タイヤの車軸を前に出すと、その分、イスの部分の座面が後ろに下がることになる。そうすると、テニス車の回転を速めることができる。だが、体を鍛えることによっても、回転のスピードは上がる。速ければいいというわけではなく、体幹が使えない分、逆にテニス車をコントロールすることが難しくなる。そのため、体の状態とのバランスを見ながら、車軸の位置を調節する必要があるのだ。そのバランスが実に難しい。古賀のブログにはこんなことが書かれてある。

<たった1センチ程度いじっただけなのに、綱渡りの綱の上に立たされている感じになってしまったり、バランスボールの上に座ってラケットを振っている感じになったり、漕いでいるつもりでもまるっきりタイヤに力が伝わらなくなったり…。>
いかに選手とテニス車が一体化しているかがわかる。だからこそ、微妙な違和感がプレーに大きく影響する。妥協は決して許されないのだ。

 さらに固定式と調整式も全く別モノだということが、最近になってわかったという。
「この間まではずっと調整式でもいいや、くらいに思っていたんです。でも、固定式に替えて、その違いの大きさに驚きました。固定式はネジ穴がない分、パワーロスがないんです。力がダイレクトにテニス車に伝わる。パワーがないクアードの選手ほど、その差は大きいんです」
こうしたひとつひとつのこだわりが、古賀のパフォーマンスを支えてくれているのだ。

 脳と身体の不思議な関係

 頚椎損傷者は、腹筋、背筋が麻痺しており、機能していない。古賀も胸から下は完全麻痺状態だ。そのため、一般のテニスでは不可欠な腰の回転と膝を使ってボールに力を伝えることはできない。ところが、古賀にトレーニングで最も重要視している点を聞くと、意外な答えが返ってきた。
「僕の課題は体幹を鍛えることなんです」

 とはいえ、頚損の彼に体幹を鍛えることはできないのではないか……。すると、古賀は「不思議に思うでしょう?」と言って、次のように説明してくれた。
「実際は胸から下は全く動きません。それでもやっぱり手だけで打ってはダメなんです。腰を使えなくても骨盤を意識しながら打つことが大事なんです」

「嘘でもいいから、腰を使え!」
 プライベートコーチの山倉昭男からは、こんな言葉をかけられたという。腰を使うイメージをしたかしないかで、実際、打球の勢いは全く違うのだ。
「打球に入ったときに、膝を落として、腰をグッとためて振り抜く。そのイメージが、深くて鋭いショットになるんです」
 機能していないはずなのに、イメージするだけで違うというのだから、人間の身体とは何とも不思議なものである。やはり脳と身体は密接につながっているのだろう。

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」とは、パラリンピックの生みの親、ルードヴィッヒ・グットマン博士の言葉だ。クアードとは、まさに「残されたものを最大限に生かした」競技である。だからこそ、引き出される不思議な力がある。この競技を知れば知るほど、人間に秘められた可能性の大きさが見えてくる。

(斎藤寿子)

※「The Road to LONDON」はNPO法人STANDとの共同企画です。車いすテニスに魅了され、自らの限界に挑む古賀選手の競技人生を描いたアスリートストーリー「可能性を信じて……限界への挑戦」とフォトギャラリーはこちらから!

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