こんな言葉にぶつかった。テレビのいわゆるお正月特番を日がな見るともなく眺めていたときのことである。もとより録画などしていないので、細部が不正確であることは、お許しをいただきたい。
「バットが折れても野手の間にいく、あるいは野手のところへ行っても不規則バウンドでヒットになった僕の打球が、ここ一年、いい当たりでも、急になぜか野手の正面に行くようになってしまった。自分のバッティング技術が衰えたのだと思いました」
 長嶋茂雄さんの引退会見である。きっと長嶋ファンにとっては(あるいは野球ファンにとっても)常識に属する言葉なのだろうけれど、正直言って、知らなかった。もちろん、かの「巨人軍は永久に不滅です」で有名な後楽園球場での引退セレモニーのテレビ中継は見届けた記憶があるが、その後の引退会見までは見なかったということだろう。
 それにしても、含蓄のある言葉である。
 長嶋茂雄が築き上げ、野茂英雄が革命を起こしたのが、最も巨視的に見た日本のプロ野球の歴史の構図だと思うが、さすが最大の功労者の言である。何よりも、打ち損ねた打球がヒットになることを、運で片付けず、打撃技術の問題として捉えているところに注目しておきたい。このような思考こそが、日本野球の歴史を積み重ねてきたのだから。

 思い出した一冊の本がある。『最強のプロ野球論』(二宮清純著、講談社現代新書)。いまなお再読に足る名著だと改めて断じておこう。この中に「史上最強の打者は誰か」という章がある。数多くの往年の強打者が論じられているが、長嶋については、こんなコメントが付されている。
<「……全盛時、長嶋の内野ゴロはすべて間一髪のアウトだった。(中略)その点、中西、落合、王のアウトは打った瞬間にそれと分かるものだった……(後略)」>
 土屋弘光氏の証言である。念のため断っておくと、この章の結論は、決して「最強打者=長嶋」説に向かうものではない。それについては、今は措く。引退会見の言葉と、この証言を重ね合わせると、長嶋という打者の本質が浮かび上がってくることに、注意したい。
 それは、例えば容易に、イチローの打席を連想させないだろうか。いい時のイチローもまた、どんなに体勢を崩されても、野手の間に打球を運ぶことができるし、ボテボテの当たりも間一髪で内野安打となる。あえて両者を比較すれば、そのことについて、長嶋はある程度、無意識であり、イチローは明確に意識的である、と言えるかもしれない。そこに日本野球の歴史を見てとることは、決して牽強付会とは言えまい。

 そして今、イチローの後を追うように、200本安打を達成し、メジャーリーグへの移籍を目指しているのが東京ヤクルトの青木宣親である。
 日本球界で青木が残した数字は見事なものである。同じ俊足巧打の外野手、左打者として、イチローがあれだけできるのなら自分も、と思っても、決して不思議ではない。
 ところが、ポスティングシステムで独占交渉権を落札したブルワーズの入札額は250万ドル(約1億9500万円)。
 あれっ? いくらなんでも安すぎませんか。そりゃ、メジャーにはメジャーの理屈があるだろうけれども……。
 もう一人。同じポスティングでのメジャー移籍を目指した埼玉西武の中島裕之は、かのヤンキースが落札したが、その額が青木と同じ250万ドル。その一方で、レンジャーズがダルビッシュ有との交渉権を落札した額は、5170万ドル(約40億円)にのぼるという。

 ここに、メジャーリーグの思惑が透けて見えないだろうか。彼らにとってピッチャーは消耗品なのである。だから、いくらいてくれてもいい。とにかく肩を消費して、投げて、試合をつくってくれ。お楽しみはそれからだ。野手はこっちで育成する。
 これまで何度か、メジャーリーグは日本野球を消費していると書いてきたが、それはこのような事情を指してのことである。結局、野手で消費を免れて、自らの存在を主張しえた打者は、いまのところ、イチローと松井秀喜だけではないか (松井はもの足りないという声もあるだろう。しかし、ワールドシリーズMVPという実績は、何ものにも代えがたい)。

 ポスティングって、どこか日本のドラフト制度に似ていますね。ポスティングでは入札、ドラフトではクジだが、そこから1球団だけに交渉権が与えられる。選手の側に選択権はない。契約交渉が不調に終われば、入団は拒否できる。
 入り口でドラフトという球団選択についての制約を設けているのだから、一定期間を経て条件を満たせば選手にFA権を与える。大ざっばに言えば、そういう理屈になっていたはずだ。ポスティングは、この論理の途中に亀裂を入れている。
 もちろん、早くメジャー移籍をしたい選手に道を開く制度だし、契約が成立すれば、日本の所属球団にはお金が入る。ただ、少なくとも今オフに起きたことを見れば、青木、中島が背負ってきた日本野球の歴史は低く見積もられたと言わざるをえない。それもまた一面の真実である。

 もっとも、日本野球は一方で、自壊の兆候を示しているようにも見える。
 昨年、日本シリーズを制した福岡ソフトバンクは見事なチームだった。FAで補強した選手と、自前で育成した選手が融合して、スピードとパワーを兼ね備えたチーム作りに成功した。長く記憶すべき強いチームだったと思う。
 で、来季はというと、杉内俊哉、ホールトンが巨人へ移籍。和田毅はFAでメジャーへ。川崎宗則は敬愛するイチローのいるマリナーズに移った。ローテーション投手3人を含む4人の主力がいなくなったのである。

 一方、杉内、ホールトンを獲得した巨人は、横浜から村田修一も獲った。常識で考えたら、今年のセ・リーグの優勝は巨人です。
 FAもポスティングももちろん選手の権利であるし、定められたルールである。その意味では、何ら問題はない。
 そうなのだ。.誰もが定められたルールにのっとって、理性的に行動している。その結果として、補強と育成を両立させた見事なチーム作りは、たった数ヵ月でバランスを失うことになり、結局若手が伸び悩んでバランスを失い、優勝を逃した巨人が、逆に圧倒的な戦力を得た。一方で十分な実績を残したはずの青木、中島はメジャーの論理に飲みこまれるかもしれない。

 個々の行動が理性的であるのに、全体がまだ見ぬ破綻に向かっている……。我々は今、そういう地点に立っているのではないか。そう感じざるをえない。
 個々は正当であるにもかかわらず、全体は危惧すべきところに向かっている。日本野球という組織が仮にそうだとすれば、その組織の関係者は、あまりに官僚的である。いや、むしろそれこそが官僚制度の本質というべきか。
 野球に起きていることは、この国の政治にも起きている……のかもしれない。我々はいま、どこに立っているのだろう。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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