「今の僕があるのは、骨肉腫という病気になったからこそだと思っています」
 そう屈託のない笑顔で語るのは、車いすテニスプレーヤー三木拓也だ。若干22歳。まだ、あどけなさの残る表情とは裏腹に、言葉の端々に大人の顔をのぞかせる。
「周囲の人に応援してもらい、支えてもらいながら、今、しっかりと自分で決めた道を歩くことができている。もちろん、そこには責任も伴いますから、プレッシャーもあります。でも、そことしっかりと向き合ってこそ、人としてさらに成長することができるんじゃないかと思うんです」
 冷静な言葉の裏側に、生きることへの情熱が垣間見えた。自らの人生と真正面からぶつかっている三木。さまざまな人との出会いが、今の彼の“素”となっている。
 1989年4月30日、父・整、母・直実の長男として生まれたのが三木である。自分の道を自ら切り拓いていく、たくましい子に育ってほしい――「拓也」という名前には、そんな両親の願いが込められている。幼少時代の三木について訊ねると、母・直実は楽しそうに笑いながら、こう語ってくれた。
「もう、とにかくジッとしているのが嫌いな子でしたね。保育園の頃から、2階よりも高い木に平気でよじ登ったり、川にジャバジャバとズボンを濡らしながら入って魚を捕まえたり……。いつも自然の中で駆け回っていました」

 小学校に入ると、父親が無類のスポーツ好きということもあり、三木はサッカークラブやスイミングスクールに通い、冬には家族でスキーを楽しんだ。しかし、三木が何よりも夢中になったのは、父方の祖父がコーチを務めていた影響で知ったテニスだった。初めてラケットを持ったのは小学4年の時。中学に入ると、迷わず軟式テニス部に入った。三木は毎日素振りをするなど、テニスに情熱を注いだ。彼がこれほど一つのことにこだわりを見せたのは、それが初めてのことだった。

 さらに、高校では念願の硬式テニス部に所属した。進学校ではあったが、本人と母親いわく、勉強した記憶はほとんど皆無に等しいという。「学校にはテニスのために行っていた」と三木が言えば、母・直実も「あの子の高校生活は、お弁当と部活がメインでしたね(笑)」と言うのだから、テニスへの熱中ぶりは相当なものだったのだろう。学校が休みの土日には、テニススクールへ通った。まさにテニス漬けの3年間だった。そしてテニスに携わる仕事がしたいと、トレーナーを目指し、体育大学への進学を考えていた。

 失われた将来への夢

 そんなある日のことだった。そろそろ受験シーズンが始まろうとしていた高3の秋、実技試験のためにテニスの練習をしていた三木は、左足に痛みを覚え、母親と共に整形外科を受診した。以前、ヒザの関節が炎症を起こし、痛みが生じたことがあったため、三木は今回もその類だろうと思っていた。ところが、レントゲン写真を見た医師は「すぐに大学病院に行って、検査してください」と言う。この時の三木はまだ、自分の体に何が起こっているのか、全く想像がついていなかった。だが、付き添っていた母・直実は既に「何かあるのかもしれない」と覚悟していた。

 そのまま島根大学付属病院へ直行し、検査を受けた。三木がまだ検査中、母・直実は医師に呼ばれた。そして、衝撃の言葉を聞いたのである。
「お母さん、気をしっかりともって聞いてください。息子さんは骨肉腫というガンにかかっています。5年後の生存率は7割です。彼は若いので進行が速い。すぐにでも入院して治療を受ける必要があります」
 母・直実は医師の言葉をすぐには理解することができなかった。いったい、息子はどうなってしまうのか……。頭が真っ白になった。だが、すぐに無理にでも冷静にならなければいけないと思い直した。
「一番辛いのは、拓也のはず。親の私がオロオロしてはいけない。現実を受け止めて、しっかりとしなければ……」

 しばらくすると、三木が検査から戻ってきた。そして担当医から本人への告知が行なわれた。病気と治療の説明を受けている間、三木は静かに黙って聞いていた。
「『悪性の骨肉腫です』と言われても、あまりの突然のことで何を言われているのか、全く頭に入ってこなかったんです。つい数日前までは全力で走って、テニスをしていたわけですから……」
 三木が最もショックを受けたのは、「もう一生、自分の足で走ることはできない」という医師の言葉だった。つまり、自分はテニスをすることも、トレーナーになるという夢も断たれたのだ、と理解した。

 全ての説明が終わると、いくつかの検査をし、翌日の入院の手続きをして、2人は自宅へと帰った。その間、三木は泣くこともわめくこともなく、無表情のままだった。母・直実はそんな息子の様子をじっと黙って見守っていた。
「拓也はもう18歳でしたから、小さい子どものように慰めの言葉を言ったところで気持ちが楽になれるとは思わなかった。自分で考えて、気持ちを整理することが、これからの辛い治療を乗り越えるためにも必要だろうと思ったんです」

 帰宅すると、三木は自分の部屋に閉じこもった。しばらくすると、部屋から大きな音と共に、悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「何でオレなんだよ!」
 そう言いながら、三木は自分の汗が染み込んだテニスラケットを叩き折り、泣き崩れた。

 翌日、入院した三木は治療の説明を受けたが、「心ここにあらず」という状態だった。実際、三木自身、入院して数日間の記憶はほとんどないのだという。すぐに抗がん剤治療が行なわれた。ひどい吐き気に襲われ、食事も喉を通らなかった。みるみるうちにやせ細っていく息子に、なんとか力をつけて欲しいと、母・直実は病院からの許可を得て、三木が食べられそうなものを朝、昼、晩と毎日作り、病院に運んだ。三木もそんな母親の思いに応えようと、吐きながらでも食べようと努めた。

 半年後、抗がん剤治療で小さくなった腫瘍を切除し、人工関節置換手術が行なわれた。苦しい治療をようやく終えた三木だったが、その後も笑顔はほとんど見られなかった。自由が利かない左足に苛立つ日々が続いた。将来の夢もなく、先の見えない暗闇の中にいた三木が唯一、生き生きとした姿を見せたのは、テニス好きの医師と会話をする時だったと母・直実は言う。
「病院の先生方は、主治医の竹谷健先生を始め、皆さん本当に優しい方ばかりでした。特にテニスが趣味の若い先生は、よく拓也に話しかけてくれました。先生とテニスの話をする時の拓也は本当にいい表情をしていました。ウィンブルドンの時期は、本当は夜9時が消灯の時間なんですけど、その先生が一晩中、テレビ観戦に付き合ってくれたんです」

 そして、ようやく三木が本来の明るさを取り戻したのは、車いすテニスの存在を知ってからだった。特に北京パラリンピックでの国枝慎吾の姿を見てからは、「早く自分もしたい」と、リハビリにも積極的になった。前向きな気持ちは、身体にもいい影響を与えた。免疫力が高まり、回復の速度が明らかに速まったのだ。2008年11月、三木は無事に退院した。その後は、リハビリに通いながら、自宅では素振りをするなど、車いすテニスへの気持ちを膨らませていた。

 挑戦の根底にある“院内学級”

 この頃、三木にはトレーナーに代わる将来の目標ができた。それは、理学療法士だった。
「リハビリの先生が、真摯に付き合ってくれて、精神的にも支えてくれました。その先生に障害を持ったことで抱いた将来への不安などを話したところ、『もし障害をもった君が理学療法士になれば、他の誰よりも患者さんの気持ちがわかる理学療法士になれる。一般の人よりも、精神的に患者さんに近い存在になれるんじゃないかな』と話してくれたんです。それがきっかけで、理学療法士を目指そうと思いました」
 これには主治医の竹谷も大賛成だった。
「彼なら、自らが経験している分、本当の意味で患者の立場に立つことができる理学療法士になれる。患者にとっても、三木くんの存在は力になるでしょうからね」
 そして、こう続けた。
「彼が本当の意味で病気や障害を受け入れることができたのは、理学療法士という目標ができてからかもしれませんね」
 実際、その通りだった。
「理学療法士という道を見つけることができたことで、僕は自分の障害を前向きに受け止められるようになりました。『あぁ、障害を活かすことができる仕事があるんだ』と思えたことが、僕にとっては本当に大きかったんです」
 09年4月、三木は神戸学院大学リハビリテーション科に入り、理学療法士への一歩を踏み出した。

 しかし1年後、国枝の誘いをきっかけにロンドンパラリンピックを目指すことを決意し、千葉へと移り住むことになる。もちろん、理学療法士への思いは全くブレてはいない。では、大学を休学してまで世界を目指そうと思ったのは、なぜなのか。そこには、入院中に出会った忘れられない子どもたちの姿があった。病院には三木と同じような病気で学校に通えない子どもたちが集まる「院内学級」があった。そこで、触れ合った子どもたちの笑顔に、三木は驚かされた。
「僕と同じように抗がん剤治療で髪の毛が抜けて、帽子をかぶっている子が、辛いはずなのに、元気になったらあれがしたい、これがしたい、って目をキラキラさせて言うんです。中には点滴を打ちながら、その部屋に来る子もいました。話をすると、とても病気を抱えているとは思えないほど、みんな明るいんです。でも、いつの間にか、院内学級に来なくなる子がいました。僕が退院するまでに、そういう子が何人かいて、退院したあとで亡くなったと聞かされたこともあります」
 
 無事に退院し病院を出たとき、三木は「生きている」ということを改めて感じたという。
「死が隣にあるような状況から抜け出したとき、外の空気がものすごく気持ちよかったのを覚えています。ロンドンに挑戦することをはじめ、以前なら足踏みしているようなことを行動に移せるのは、亡くなった子供たちに胸をはれるくらい一生懸命生きたいという想いが、心の底に根付いているからかもしれないなと最近では思うんです」
 ロンドンパラリンピックを目指すことを決意した裏側には、生きることへの強い想いがあった。
 
 深め合う家族の絆

 現在も三木の最終目標が理学療法士であることに変わりはない。パラリンピック出場も、彼にとっては理学療法士になるための一環なのだ。
「僕が車いすテニスでパラリンピックに挑戦するのは、もちろんうまくなってメダルをとりたいということもあるのですが、障害をもっても一つのことをここまでやり通せた、これだけできるんだよ、ということを身近な存在として伝えらえるようになるためでもあるんです。そうなれば、将来、理学療法士になった時に、障害をもった子どもたちに自らの経験と共に『一緒に頑張ろう!!』と伝えることができると思っているんです」
 この三木の話に、インタビューに同席していたコーチの丸山弘道は何度も深くうなづき、そしてこう言った。
「彼がどんな話をするのか、興味をもって聞いていましたが、改めて成長を感じましたね。理学療法士もテニスも、自分に向けてではなく、外に発信する内容でした。物事を自分中心ではなく、相手のことを思って、考えられるようになってきた証拠です」

 丸山同様、母・直実もまた、三木の成長ぶりを感じていた。
「最近は、これが同じ拓也なんだろうかと思うほど、大人になりましたね。以前はちょっとしたことで、すぐに気持ちが折れていたのですが、今はブレることがないような気がします。一本、芯が通っているというんでしょうかね。親への態度も変わりましたよ。父親は結構、細かく注意するので、少し前までは何か言われると、ちょっとうるさそうな顔をしていたんです。でも、今は素直に『うん、わかった』って返事するんですよ。父親が自分のことを思って言ってくれているのだと感じているんでしょうね」

 そして家族もまた、三木から大きな影響を受けているようだ。三木には2つ下の双子の弟がいる。兄弟というよりも、三つ子のように育ってきた彼らは、子どもの頃、取っ組み合いのケンカはしょっちゅうだった。特に激しくぶつかり合ったのは三木と、双子の兄である航太だった。
「航太は3人の中でも自己主張が強くて、2つ上の拓也に負けまいとするんです。拓也も引きませんから、もうそれこそ馬乗り状態になってケンカしていましたよ。でも、私が特に仲裁に入らなくても、いつの間にか、また一緒に遊んでいるんです」

 だが、そんな2人の関係も三木の病気を機に、ガラリと変わったという。三木が入院すると、航太は頻繁に病院を訪れ、兄を励ました。
「それまではゲームでも何でも先を競っていたのに、拓也が入院した途端、航太は拓也を優先するようになったんです。新しいゲームを買っても、自分はやらずに、まず病院に持ってきて拓也に渡していました」
 そんな2人の姿に、親子とはまた違う、兄弟ならではの関係の深さを母・直実は感じていた。
 一方、双子の弟・翔伍はもともと優しい性格で、三木や航太ともあまりケンカはしなかったという。優しいが故に、翔伍は辛そうな兄の姿を直視することができず、あまり病室には顔を出さなかった。だが、母・直実が病院から帰宅すると、すぐに寄ってきて三木の様子を聞いては心配そうにしていたという。

 その2人は今、大学生だ。奇しくも共に三木と同じ医療の道を目指しているという。航太は臨床工学士、翔伍は薬剤師だ。
「特に拓也に倣ってということではなく、偶然なんでしょうけども、3人とも医療関係だなんて、兄弟ってやっぱり不思議ですね。航太も翔伍も、拓也には一目置いているというのはありますね。面と向かって、彼らが拓也に言うようなことはありませんが、3人の会話を聞いていると、言葉の端々に『すごいな』というのが表れているんです。航太と翔伍は、拓也を誇りに思っているんじゃないでしょうか」

 一方、心配が故に、三木が休学して千葉に移ることに反対をしていた父親にも、変化はあるようだ。
「相変わらず、拓也を子どもだと思っているのか、あぁだこうだと注意していますね(笑)。ほとんど褒めたことはありません。でも、試合を観に行くと、『アイツ、強くなったな』ってボソッって言うんです。『え? 何?』って聞き返すと、『何でもない』って。男親ってそういうものなんでしょうね。口には出しませんが、あれだけ反対していた拓也のこと、父親も既に認めていると思いますよ」
 目には見えない家族の絆が、そこにはあるような気がした。

 正念場を迎えたロンドンへの挑戦

 ロンドンパラリンピックまで、半年を切った。5月のジャパンオープンまでに、国内4位に入らなければ、出場権を得ることはできない。現在、世界ランキング3位の国枝、同9位の斎田、同10位の真田卓はほぼ確定している。残り1枠を同18位の藤本佳伸と、同25位の三木、そして同29位の本間正広の三つ巴で争うかたちとなっている。残りの大会とポイント差を見ると、やや藤本が有利か。
「いや、私は最後のジャパンオープンまでもつれると思いますよ。もしかしたら、そこで同門同士での直接対決によって決まることになるかもしれない」
 そう語る丸山の表情は何とも複雑だった。あろうことか、TTCのチームメイト同士での争いとなってしまったのだ。経験豊富な藤本が逃げ切るのか、三木の勢いが上回るのか。それとも、本間がベテランの意地を見せるのか――。3人の争いは激しさを増している。

「自分を信じ、強い気持ちを持って最後まで諦めなかった選手が勝つでしょうね」と丸山。
 それに対して、三木はこう語っている。
「僕は走り回り打ち続けることと、『絶対に負けない』という強い気持ち。今はこの2つしか、勝っている部分はありません。とにかく、練習してきたことを、試合で全部出し切ります」

 今年1月のオーストラリア遠征。途中から帯同した丸山は、初めて海外での三木のプレーを観た。そして、改めて彼の可能性を感じたという。
「結果としてはポイントを取れず、残念だったのですが、それでも『これから計画的に、一つひとつ課題をクリアしていけば、確実に力をつけていくだろうな』と感じました。彼はまだ経験値が少ないので、試合中も自分よりランキングが上の選手となると、焦ったり萎縮することもあるんです。ただ、それでも今、練習で取り組んでいることに対して、果敢にチャレンジしていた。海外に行くと、自分のテニスができなくなる選手もいるのですが、彼は大丈夫だということを確認できました。それと、何よりも彼は友だちを作るのがうまいんです。積極的に海外の選手に話かけてはコミュニケーションをとって、練習したりしていました。そんな姿を見て、この世界で十分にやっていけるなと確信しました」

 一方、三木自身が自分の成長を感じたのが、昨年12月の南アフリカでの大会だ。前月の大会で思うようにポイントが取れなかったために急遽エントリーした、ロンドンへの可能性を左右する大事な大会だった。そこで、三木は見事に優勝したのである。
「当時、僕のランキングは国内で6番目。この大会でポイントを取ることができなければ、ロンドンへの望みはほとんどなくなると思っていました。だから、もう眠れないくらいピリピリしていたんです。そういう追い込まれた状況の中での優勝でしたから、本当に嬉しかったですね。達成感という意味では、これまでの人生の中で一番だったと思います」
 
 三木の座右の銘は「貫く」だ。
「チャンスがあったら手を伸ばしていこうとか、理学療法士になることとか、自分で決めたことをしっかりと貫き通すということを、自分自身では今一番大事にしているんです」
 ロンドンへのポイントレースは、まさに今、正念場を迎えている。これまで経験したことのない大きなプレッシャーとの戦いの日々が続くことが予想される。だが、今の彼なら、どんなに厳しい条件下でも、最後まで諦めずにロンドンを目指すことを貫くはずだ。
 三木拓也――日本の車いすテニス界に現れた若きホープから今後、目が離せない。

(おわり)

三木拓也(みき・たくや)プロフィール>
1989年4月30日、島根県生まれ。小学4年からテニスを始め、中学では軟式テニス部に所属。高校では硬式に転向し、3年時にはダブルスで県総体準優勝を果たした。その年の秋、骨肉腫を患い、入院。1年間の闘病生活の間に、車いすテニスの存在を知る。退院後、理学療法士を目指して神戸学院大学に進学すると同時に、神戸車いすテニスクラブに通い始めた。1年後の2010年4月の神戸オープンで国枝慎吾からの誘いを受け、同年6月に千葉県柏市にあるテニストレーニングセンター(TTC)へ。現在、ロンドンパラリンピックを目指し、世界を転戦している。

(斎藤寿子)



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