高校ラグビーの3大大会と言えば、全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会(春の熊谷)、全国高等学校ラグビーフットボール大会(冬の花園)、そして国民体育大会だ。国体に出場するオール徳島(徳島県高校選抜)に選ばれるためには、所属高校の監督の推薦を受け、選考会に参加する必要がある。柳川大樹は2年間で大きな成長を遂げ、3年時にはチームに欠かせない存在となっていたが、監督の川真田洋司は彼を選考会に推薦しなかった。ただ、それは選抜メンバーとしての実力がないからではなかった。川真田にはある考えがあった。
 花園に導いた国体での経験

「当時の柳川には、オール徳島に入れる実力は十分にありました。ただ、まだ積極性が足りていないように思えたんです。だから発破をかける意味もこめて、柳川には『 (オール徳島の代表権を)自分で取り返してみろ!』と言いました」
 川真田は、柳川のさらなる成長を期待していたのだ。

 その恩師の期待に応えるように、柳川は以前にも増して、ボールを持ってから果敢に前進するプレーをするようになった。そのプレーが練習試合などに視察に来たオール徳島の首脳陣の目に留まった。通常は初回の選考会に監督から推薦されなかった選手が、その後の選考会に呼ばれることはない。だが、柳川は練習参加要請を受け、晴れてオール徳島入りを果たした。柳川は自身のプレーで、オール徳島代表の座を取り返してみせたのだ。

 オール徳島は国体四国ブロック予選を突破することはできなかった。またしても全国の舞台を踏むことは叶わなかったものの、柳川は確実に成長していた。その進化を川真田はこう語る。
「相手のDFラインのギャップを突く速さであったり、ここを突破されるとピンチになるというところをしっかりカバーしていたり……。以前から持っていた感性がさらに磨かれたと思います。高校生活の終盤ほど、そう感じることが多かったですね」

 2006年10月、高校ラグビーの集大成として最後の花園出場をかけた県予選が始まった。城東は準決勝を68−7の大差で突破し、2年連続で決勝に進出した。決勝の相手は22度の花園出場を誇る貞光工業高校。試合は17−13と城東がリードしてロスタイムに突入した。城東は前年の決勝で、ロスタイムにPGを許して土壇場で逆転され、花園出場を逃している。この試合も、ロスタイムに貞光工の猛攻にさらされた。それでも、柳川を筆頭に城東フィフティーンは必死のタックルでゴールラインを割らせない。夢の舞台まであと少し――。すると城東の粘りが、貞光工に焦りを生じさせた。右サイドを突破しようとした相手のパスが乱れ、ボールがこぼれた。それを城東の選手が渾身の力でピッチ外へ蹴り出した瞬間、ノーサイドの笛が響き渡った。

「ノーサイドまでが長かったですね。ロスタイムが5分くらいありましたから。早く鳴ってくれと思っていました(笑)」
 最後のチャンスで掴みとった花園出場は、柳川にとって今も「ラグビー人生で一番うれしかったこと」だ。その花園では1回戦で岡谷工業高校(長野)を破り、徳島県勢36年ぶりとなる初戦突破を果たした。その後、2回戦で涙を呑んだものの、高校生活最後の1年は、柳川にとって忘れ難い思い出となった。 

 柳川をラグビーの世界に導き、3年間指導した川真田は彼の高校での進化をこう振り返った。
「柳川の感性を生かしたプレー、キャッチング技術はチームにとって本当にありがたかったですね。そもそも、ロック(LO)というポジションを務める選手はチームの陰のような存在です。その意味で柳川は、しっかりとチームを陰で支えてくれていました。消極的なプレーが彼の課題でしたが、3年時にはそれもほぼ克服できていましたね。私の厳しい指導に、よく3年間ついてきてくれた。高校生活で、柳川は一つの壁を乗り越えたと思います」

 悔し涙の先に

 07年4月、柳川は大阪体育大学に進学した。大体大は川真田の母校であり、恩師の「行けば絶対に伸びる」との言葉を信じ、進路を決断した。そして、部員数が100人近くになる大体大で、柳川は1年時からベンチ入りを果たし、全国から集まったメンバーの中で経験を積んでいった。

 2年時には、U-20日本代表候補に選出された。試合メンバーには残れなかったものの、同世代のトップクラスの実力を持つ選手が集まる環境で学ぶことは多かった。
「パスやキャッチングなどのスキル面や、コンタクトの仕方がすごく勉強になりました。フィジカルで負けていても、身体の使い方さえわかっていれば十分に闘えるんです。たとえば低い姿勢から相手の懐に入れば、当たり負けすることはありません。劣っている部分をカバーする技術をいろいろと教えてもらいました。環境が変わったことで、すごく刺激になりました」

 柳川には大学でどうしても成し遂げたい目標があった。それは当時、唯一全日本大学選手権3連覇を達成し、柳川が強豪というイメージをずっと抱いてきた同志社大学を倒すことだった。しかし、それを果たせないまま、3年が過ぎ去った。迎えた10年10月の関西大学Aリーグ第2戦、大体大は同志社と対戦した。結果的に最後のチャンスとなったこの試合、それまでの同志社戦の中で最も印象に残っているという。大体大は、前年に13−63の屈辱的大敗を喫したことがウソのような接戦を演じる。常にリードを許しながらも、後半34分まで15−20と粘りを見せていた。柳川もFWの要としてチームを引っ張り、果敢に同志社の壁にぶつかっていった。そして残り6分、1トライとコンバージョンゴールを奪えば逆転の可能性を秘めた状況に、念願の初勝利の瞬間が柳川の脳裏をよぎった。ところが、現実は違った。逆に同志社にトライとコンバージョンキックを決められ、無情のノーサイド。その瞬間、柳川は人目もはばからず、ピッチで泣き崩れた。
 とうとう、4年間で同志社に勝利することはかなわなかった。これが、現時点で柳川の最も悔しい出来事となっている。その後、大体大はリーグ戦を4位で終え、3年ぶりに全日本大学選手権に出場した。しかし、1回戦で名門・早稲田大学に7−94と完敗。柳川の大学ラグビーはほろ苦い結果で幕を閉じた。

 ただ、柳川に立ち止まっているヒマはなかった。卒業後の進路が既に決まっていたからである。選んだのは日本ラグビーの頂点にあるトップリーグへの挑戦だった。実は大学3年の夏、大体大合宿地の菅平でリコーブラックラムズ前ヘッドコーチ(HC)のトッド・ローデンに声をかけられていたのだ。
「菅平にトッドが見に来てくれていたんです。その時にブラックラムズへの加入を打診されました。卒業後は教職に就く選手が多いんですけど、僕はラグビーを続けることしか考えていませんでしたから、迷わずブラックラムズに行こうと決めました」

 高校でラグビーに出合い、花園出場という大舞台を経験した。その一方で大学では、宿敵に何度挑戦しても勝てない悔しさを味わった。こうしたさまざまな経験が柳川を成長させてきたのである。そして11年4月、柳川は新たな舞台へと足を踏み入れた。

(第4回へつづく)
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柳川大樹(やながわ・だいき)プロフィール>
1989年2月19日、徳島県生まれ。徳島県立城東高―大阪体育大学。城東高では3年時に全国高校ラグビー選手権に出場し、徳島県勢では36年ぶりに初戦を突破。大体大では1年からベンチ入りを果たし、U-20日本代表候補に選ばれる。11年、リコーブラックラムズ入り。リーグ戦13試合中11試合、1トライを獲得。同年、7人制日本代表に選出され、11年ボルネオセブンズは全6試合にフル出場して優勝に貢献した。オーストラリアで行われたセブンズワールドシリーズにも参戦し、世界レベルを経験。3年後のイングランドW杯、7人制ラグビーが正式種目となるリオデジャネイロ五輪出場を目指している。ポジションはロック、ウイング並のスピードを誇り、空中戦にも強い。身長190センチ、体重100キロ。



(鈴木友多)
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