Jリーグ20年目のシーズンが始まった。その20年前の1992年に、日本サッカー界に新星が現れた。今季からサンフレッチェ広島の監督に就任した森保一である。現役時代の彼は、日本にモダンサッカーを導入したハンス・オフトの「申し子」として日本代表の中盤を支えた。森保の代表抜擢には多くの人々が驚いた。当時、彼は地方クラブの一選手にすぎなかったからである。では、なぜオフトは森保を選んだのか。そこにはオフトが見抜いたボランチとしての“適性”があった。
 モダンサッカーのリトマス試験紙――これから紹介する人物を一言で表現すれば、そうなるのではないか。
 日本サッカー協会が代表チームのワールドカップ出場に本腰を入れ始めたのは、当時、強化委員長をしていた川淵三郎氏が代表監督にハンス・オフト氏を指名してからである。すなわち平成4年(92年)3月。

 オフトは「コンパクト」「アイコンタクト」「スリーライン」といったキイワードを駆使して、日本サッカーにモダニズムの思想を注入した。とりわけFW、中盤、DFからなる3つのラインを、約35メートル以内の距離に収納し、ほぼ等間隔で維持することに執拗とも言えるほどの注意を払った。これこそが日本代表の生命線だと彼は考えていたからである。
 そしてオフトはこの「スリーライン」の調整役、いわゆるバランサーに“秘蔵っ子”の森保一(当時サンフレッチェ広島)を指名した。当時「ボランチ」という呼び名は一般的ではなく、中盤の底を仕事場とするコントローラーは「ディフェンシブ・ハーフ」と呼ばれていた。

「森保一、誰それ?」
 当時はメディアの世界の住人でも、彼の名を知る者はごく一部だった。代表経験のない超無名選手。当時、日本代表の主力は我が世の春を謳歌していたヴェルディ勢だったが、彼らはひとりとして「森保一」の名前を知らなかった。ウソのようなホントの話である。

 アメリカW杯出場を目指すオフト・ジャパンの最初の合宿でこんなことがあった。
 あるベテラン選手が森保の姿を見て、同じ年頃の若手に訊ねた。
「アイツ、攻撃の選手?」
「いや、ディフェンスらしいですよ」
「ディフェンスって、どこ守るの」
 この程度なら、まだいい。
「ところで、アイツ、なんていう名前なの?」
「モリ・ヤスカズらしいですよ」
「エッ、モリホ・ハジメじゃないの?」
「モリ・ホイチという説もあります」

 オフトはチームのバランスを司る重要な位置に入った森保に「前を向く」ことを徹底させた。このポジションは前を向かなければ仕事にならない。守備に追われるあまり、後ろを向いてプレーしていてはラインは保てない。コンパクトなサッカーも絵に描いたモチに終わってしまう。
 そこでオフトは最終ラインの選手に森保への指示を徹底させた。
「ターン」と「リターン」
 ボランチは攻撃の起点となるサッカーの地政学上重要なポジションである。ひとつのミスが命取りとなる。
 そんなポジションだからこそ、オフトは確実性、忠実性を重視し、テクニックはないが献身的で、シンプルな技術を身上とする森保を大抜擢したのである。しかし、それにはまず「ターン」ができなければならない。

 ボールを持った時、相手が近くに来ていなければ「ターン」、来ていれば「リターン」、それを森保に一番近いプレーヤーが伝えるのだ。オフトは「コーチング」という言葉も用いたが、これこそ森保を対象にした言葉だった。
 森保はその指示に従って、テキパキとよく働いた。テクニックが他のプレーヤーに対して劣る分、彼は的確に、しかも素早くボールをフィードした。それこそがオフトの狙いでもあった。コンパクト過ぎるくらいコンパクトなサッカーをオフトは追求し、そのキイパースンに色のついていない森保を指名したのである。

 これは当時の日本代表の同僚で先輩格だった都並敏史から聞いた話。
「一度、ある選手が“リターン”というべきところを間違えて“ターン”と言ってしまった。振り向いた森保は真正面から相手にぶつかってしまった。それくらい彼は自分の仕事に精一杯だったのです。
 しかし、僕たちは誰も森保を笑う気にはなれなかった。森保より少しうまいとはいえ、当時の日本代表の中で、世界へ出ていってもラクに前を向けるプレーヤーはラモスくらいしかいなかった。それが現実だったんです……」

 言っておくが、これは今から100年前の話でも50年前の話でもない。わずか20年前の話である。
 過日、ある日本代表の主力選手に、先に紹介した森保の話を振った。その青年は「ヘエーッ、そんなことがあったのですか」と目を丸くして驚いていた。
 進境著しいサッカーの世界においては「平成」のひとケタ時代すら遠い昔になりつつある。過去を懐かしがる間もないほど日本サッカーは成長をとげている。

<この原稿は2002年発売の「英雄神話」に掲載された原稿を一部再構成したものです。>
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