西本恵「カープの考古学」第91回<浮沈を占う3年目のシーズン編その2/8連敗の後の大勝利>

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 カープ創設から3年目のシーズンは戦力が整わず、なかなか勝ち星に恵まれなかった。勝率でいうと2割そこそこという状況から脱することができずにいた。苦しい日々であったが、カープが戦ってきたのは、親会社のない現実からか、これまでは貧しさとの戦いでもあった。前年の昭和26年から後援会が県内各地に次々に結成され、後援会員から毎月寄せられるひとり20円の会費が後援会ごとで集金され、一括して窓口である中国新聞に寄せられる。これを選手強化資金に充てることで、経営を成り立たせてきた。わずかなお金であっても、大衆に呼びかけることで大きな力に変えていたのだ。

 

 後援会組織のおかげで、前年からおおよそプロ野球チームらしい体(てい)を保つことができるようになってきていた。しかし、監督の石本秀一にはある思いがあった。

 いつなんどき、また経営難に陥るかもわからない――。

 よい状態になったからといって安心はできまい——。

 だからだろう石本はお世話になった後援会の地域へ出向き、会員とのつながりを保つよう心がけた。

 

加計高校グラウンドでの紅白戦

 カープは昭和27年5月2日、広島県山県郡加計町(現在、安芸太田町)に出向き、紅白戦を開催した。山県郡加計町広島カープ後援会が主催となり、地元の人らが試合運営を取り仕切った。プロ野球の試合でありながら、加計高校のグラウンドを使って行うという即席球場での試合だ。

 

 推測ではあるが、この前年の昭和26年2月27日、矢野中・小学校グラウンドで行われた紅白戦のように、<フェンス代わりに杭と縄でグラウンドを囲み」「バックネット代わりにクラウンドに棒を立てて網を張った>(『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』トーク出版)ことだろう。高校のグラウンドであっても、あの手この手でもってプロ野球の球場に早変わりさせた。

 

 試合は紅軍投手陣の石黒忠や、川本徳三らが打ち込まれたのとは対照的に、白軍投手陣は、一軍で奮闘している大田垣喜夫、松山昇、野崎泰一、渡辺信義らが踏ん張って、23対6で白軍が快勝した。ホームランも藤原鉄之助の2本をはじめ、白石勝巳(前・敏男)、山川武範、野田誠二らによる5本が乱れ飛び、地元の人たちを喜ばせた。

 

 試合の結果はさておき、カープ選手らが何よりもうれしかったのは、地元加計地区のファンらからの寄贈品だ。<試合開始にさきだち、ファン寄贈の二十数点にわたる記念品>(「中国新聞」昭和27年5月4日)。が贈られた。これらは、選手らのカンフル剤となったはずだ。

 広島県内の各地に広がる後援会による縁つなぎはシーズン中も続けられていった。

 

“鯉の滝登り”の願いを込めた贈り物

 選手たちが贈り物を受け取るなど、ファンらに支えられたのは、広島県内だけではなかった。加計での試合からわずか数日後、茨城県水戸市のカープファンなる人からも、カープにとって、たいへん縁起のいいものが贈られた。

 

<五月の鯉の滝登りのように連勝を祈ってか、茨城県の一ファンからこのほど鯉の軸もの(※掛け軸)がカープに届けられた>(「中国新聞」昭和27年5月7日)

 掛け軸には、大きな鯉が一匹、滝登りをするかのように、天に向かって泳いでいる姿を描かれたものだった。

 

<送り主は茨城県水戸市在住の日本美術会員、郡司硯田氏という日本美展に十一回も入選している画伯>(同前)

 記事には、茨城県出身の杉浦竜太郎投手を通じ、大のカープファンだと紹介されている。この郡司硯田(ぐんじ・けんでん)は、かの堅山南風に師事し、後の“鯉画の巨匠”といわれる日本画家だ。数多くの「遊鯉図」を残し、現在でもマニアの間で日本画の取引がなされるほどだ。

 

 鯉の滝登りを表現した日本画を受け取ったからには、ファンの心意気に応えるためにも、カープは勝たなければならなかった。

 

9連敗になってしまうのか—

 ところが5月15日から6月7日まで、引き分け1つをはさんで8連敗。このことは前回の考古学で触れたが、このシーズンのワーストを記録してしまった。9連敗となると、2ケタという大台にもなりかねない。

 

 6月8日、広島総合球場での大洋との一戦にのぞんだカープ、先発には新人の大田垣を立てた。大洋は初回、前日までの勢いをそのままに、大田垣の立ち上がりを攻め、1点をあげたが、カープも負けていなかった。3回裏、ランナーを置いたチャンスの場面で、大澤清がレフト線に放った打球が二塁打となり、2点をあげて逆転に成功した。

 

 しかし、安定感のある大田垣が、この後の4回表に突如として乱れて交代——。代わった笠松実も2安打され、この回、一挙5点をあげられて再逆転された。

 

 これまで8連敗の流れもあり、カープはこのままずるずる崩れるかと思われたが、ここで笠松が立ち直った。5回から8回までスコアボードにゼロを並べた。

 

連敗止めた笠松の奮投と大澤の3長打

 見違えるほどのピッチングにカープ打線が応え、大洋をじりじりと追い上げる。5回裏、大澤の再度の長打で2点をあげ、4対6と詰め寄った。接戦へと流れを持ち込むと、カープは7回裏に1点をもぎとり、ついに1点差に迫った。だが、粘る大洋は、9回表に1点を加え、カープを再度突き放すのであった。

 

 9回裏を迎えた時点では5対7と、この試合の流れは、大洋に傾きかけていた。ここであきらめなかったカープは、ワンアウトながらランナーを2人ためて、この日当たっている大澤が、快心の長打を放った。ランナー2人が還り、同点に追いついた。

 

 いけるぞ、という気持ちに変わっていったカープ打線。ここで5番の門前眞佐人がバッターボックスに入った。

<門前の中越え二塁打で、九分九厘諦めていた勝利を手中にした>(同前)

 ここぞの一打に、雨の中、応援し続けたカープファンは、やっとの勝利、しかもサヨナラゲームに歓喜した。

 

 長かった連敗からの脱出であったが、これを機に、カープは上向いていくはずと信じたかった。ところが、この日の勝ちを加えても、カープは9勝29敗2分で、勝率2割3分7厘。セ・リーグ連盟の規定である勝率3割を切ったチームの処遇は、連盟にゆだねるという、規定内であった上に、6位の松竹にも1ゲーム離されての最下位であった。

 

 数字による順位の現実は厳しいものがあった。今シーズンの戦いに果たして希望が見いだせるのか、次回の考古学にも、ご期待あれ。

 

【参考文献】「中国新聞」(昭和27年5月4日、6月9日)、『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』(トーク出版)

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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