田中勇次は中学校を卒業すると、地元の神戸市を離れ、徳島県の鳴門工業高校へと進学した。前年、鳴門工は夏の甲子園に出場し、ベスト8進出を果たしていた。そんな同校に田中は徳島県内に敵はいないと思っていた。
「鳴門工に入りさえすれば、必ず甲子園に行ける!」
 そう信じてやまなかった。だが、高校野球の世界はそう甘くはなかった。田中が思い描いていたものとはまるで違う、厳しい現実が待ち受けていた。
 田中が野球を始めたのは小学校2年の時。学校の軟式チームに入った。今でも鮮明に覚えているのは6年の時のホームランだ。地元の神戸市垂水区の大会での準決勝、「1番・サード」でスタメン出場した田中は、同点で延長に突入したその試合でサヨナラホームランを放った。
「今でも打った感触を覚えています。高めのボール球だったんですけど、しっかりととらえられましたね。サヨナラホームランなんて、後にも先にも、ありません。もうあまりの感動に、泣きながらベースをまわりました。ビデオを撮っていた母親も泣いていて、画像はもうグチャグチャ。後で観たら、僕が映っていないんです(笑)」

 中学校でも野球部に入った田中は、自然と甲子園に憧れるようになった。しかし、垂水区内では優勝したこともあったが、神戸市の大会ともなると、勝つことができなかった。無論、当時の田中は平凡な選手に過ぎなかった。そんな田中が目にしたのが、夏の甲子園でベスト8に進出した鳴門工だった。他にも強豪校はいくつもあったが、なぜか田中の脳裏には鳴門工ナインの姿が強く残っていた。すると、奇遇にも父親の知人から鳴門工への誘いの話がきた。田中に迷いはなかった。
「激戦区の兵庫県ではなかなか甲子園に行くことはできません。それに僕自身、甲子園を狙うような強豪校ではレギュラーをとることは難しいだろうなと。鳴門工だったら、徳島県では敵なしだろうし、甲子園に近い。自分も頑張れば、レギュラーになれるかもしれない、と思ったんです」

 そしてもう一つ、田中には鳴門工を選んだ理由があった。それは豊富な練習量にあった。
「中学校のグラウンドは本当に小さくて、外野のスペースがなかったんです。だから、外野手のノックなんてなかったし、まともにバッティング練習をしたこともありませんでした。しかも、他の部と併用だったので、2日に1回くらいしか使用することができなかった。そんな環境だったので、思いきり練習したいという気持ちが強かったんです」
 中学3年の秋、田中は鳴門工の練習を見学に行った。同校の練習施設は予想をはるかに上回るものだった。両翼100メートル、中堅120メートルの広々としたグラウンドに加え、立派な室内練習場があり、野球に専念するにはこれ以上ないというほど恵まれた環境だった。そこで、県内随一といわれる厳しい練習が行なわれると聞き、練習に飢えていた田中はますます鳴門工への憧れを募らせていった。

 しかし、実際の練習は想像以上の厳しさだった。とにかく、よく走らされた。特に1年生はボールを持つ時間とは比にならないほど、走ることに時間が割かれた。その厳しさは、わずか1日でリタイアした選手もいたほどだ。1カ月もしない内にバタバタと5人ほどが部を去り、その後も1人抜け、2人抜け、夏の大会前には入学時に20人いた1年生部員は半数の10人となっていた。

 田中はというと、「最高の環境で練習が思い切りできる!」と意気揚々と入ったものの、あまりの厳しさに何度も根をあげそうになったという。それでもリタイアしなかったのは、なぜなのか。それは故郷への思いにあった。
「僕の中学で、甲子園を本気で狙うような強豪校に入ったのは、僕ただ一人なんです。僕が徳島の鳴門工に行くって言ったら、みんなすごく応援してくれて、期待されていることを感じました。その期待を裏切れないと思いました。それに、親にもたくさん迷惑も心配もかけてまで、行かせてもらったわけですから、途中で投げ出して帰ることなんて絶対にできなかった。だから、辞めたいというよりも、早くやりきって引退したいなと思っていました」

 起こるべくして起きたミスでの敗戦

 その年、前年夏の甲子園メンバーが何人か残っていたこともあり、鳴門工は県内で頭一つ抜けた存在だった。実際、春は県大会を制し、四国大会でも高松商(香川)、明徳義塾(高知)と甲子園でもお馴染みの強豪校を破り、見事、準優勝を果たした。自ずと夏の大会でも優勝候補の筆頭に挙げられていた。ところが、勝負の世界は何が起きるかわからない。なんと、春の覇者・鳴門工が初戦敗退を喫したのだ。相手は前年夏の決勝の相手、徳島商だったとはいえ、1−9の7回コールド負けという結末は周囲を驚かせた。
「こんなに強い先輩たちでも勝てないんだ……」
 鳴門工に入れば、甲子園に行けるものだと思っていた田中は、自分の甘い考えに初めて気づかされた。そして、翌年も野球の怖さを知ることになる。

 田中たちの一つ上の学年は、大型選手が数多くそろい、「史上最強」と謳われていた。しかし、実力はあるものの、接戦に弱かった。ほんの少しのミスが、勝てる試合を逃す要因となっていたのだ。普段から監督やコーチはそのケアレスミスをなくすよう、注意していた。しかし、チームに変わる様子は見られなかった。そして迎えた夏、鳴門工は信じられないミスを犯し、思わぬところで敗戦を喫した。初戦を13−3と6回コールド勝ちした鳴門工は、3回戦に臨んだ。相手は徳島東工。下馬評では圧倒的に鳴門工が優勢と見られていた。ところが、試合は意外にも1点を争う接戦となった。2−2のまま、試合は延長戦へともつれこみ、11回へと突入した。先攻の鳴門工はこの回も無得点に終わり、その裏、守備についた。すると、鳴門工にミスが出始める。先頭打者を四球で出すと、次打者の送りバントの打球を一塁手が暴投。さらに次の打者の送りバントをピッチャーが好フィールディングを見せて投げた送球を、三塁手がポロリと落としてしまったのだ。タイミング的には完全にアウトで、送球も三塁手の真正面と、普段なら考えられないイージーミスだった。

 ノーヒットで無死満塁、そして迎える打者は4番と、流れは完全に徳島東工だった。4番打者の打球がライト前へポトリと落ちた瞬間、鳴門工のサヨナラ負けが決定した。
「四球も暴投も、普段の練習から監督が先輩たちに言い続けてきたことでした。それが、あの大事な場面で出てしまった。実力的には、先輩たちの方が絶対的に上だったはずです。それなのに、自分たちのミスだけで負けてしまった。勝つことの難しさを痛感させられました」

 3回戦で姿を消した鳴門工は早々と新チームがスタートした。同学年での投票で決定するキャプテンには、満票で田中が選ばれた。だが、小粒揃いの田中たちの代は決して強いとは言えなかった。レギュラーの半数以上を一つ下の学年が占める中、「史上最弱」と言われた。実際、秋季大会ではまたも徳島東工に負け、初戦敗退を喫したのだ。周囲は誰も田中たちの代に期待はしていなかった。そして、田中たちもまた自分たちの弱さを認めていたという。だが、それは諦めではなかった。
「弱いなら、強くなるしかない」
 厳しい冬のトレーニングが始まった――。

(第4回につづく)

田中勇次(たなか・ゆうじ)
1991年1月11日、兵庫県出身。鳴門工業高3年夏、主将として甲子園に出場。明治大では2年秋に内野手から外野手に転向し、翌年の春季リーグでは開幕スタメン入りを果たした。主に守備固めとして、昨秋には明治神宮大会優勝に貢献した。今年は主将としてチームを牽引する。170センチ、70キロ。右投右打。




(斎藤寿子)
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