サッカー界の大谷誕生の一歩はW杯での大躍進
毎週日曜日の午後9時を楽しみに待つ秋になった。TBS系で放送されているドラマ「ザ・ロイヤルファミリー」。北海道の雄大な景色と人々の夢。登場人物はもとより、制作人の競馬という世界に対する愛情がひしひしと感じられる。
注目が集まった日米首脳会談では、ワールドシリーズが初対面の両者の気持ちを解きほぐす一助となったらしい。GDPで世界2位まで上り詰め、半面、エコノミックアニマルと揶揄されることのあった時代には持ち得なかった米国との“共通言語”を、いまの日本は持っている。
“お花畑”に生きるわたしは思う。スポーツってやっぱり素晴らしい。
競馬がなくて困る人と困らない人。野球がなくて困る人と困らない人。どちらが多いかはわからないが、そこに人生がかかっている人となれば、数はずいぶんと絞られてくる。極論すれば、なくてもそれで命を落とすほどではない、というのが、基本的には余暇から生まれたスポーツーーあるいは文化というものの本質である。
スポーツは文化である、とはよく言われる。では、文化とは何か。わたしは、世代を超えて一定数の人々に愛されるもの、だと考えている。ゆえに、ビートルズは文化だが、BTSは違う、と思う。いまのところは。
では、ブームに過ぎなかったものが文化に昇華していくためには何が必要か。時間と、そして公の後押しではないだろうか。
どれほど素晴らしい役者がいても、舞台が体育館では歌舞伎の魅力が大幅に損なわれてしまうように、競馬場がなければ競馬は成立しない。では、全国に競馬場を造ったのは誰か。公、だった。大谷翔平や山本由伸が育ったのは、日本全国に野球場があったから、だった。日本中すべての高校球児が専用球場でプレーできる環境が、日本にはあったから、だった。
ただもし歌舞伎関係者から「歌舞伎は文化だから、国はもっと立派な施設を造れ」との声が出てきたら、わたしはたぶん、カチンと来る。なぜ、ごく一部の人間にしか使用できないもののために、公金を注ぎ込まなければならないのか、と思ってしまう。
ひょっとすると、国や地方自治体が次々と競馬場や野球場を造った時代にも、「なぜそんなものを」という声はあったのかもしれない。だが、いまは昭和とは比べ物にならないぐらい、さまざまな意見が飛び交う時代になっている。加えて、「上から」に感じられる意見に対しては、強い反発が生じるようにもなった。
そんな時代に、「サッカーは文化だから専用スタジアムを」と叫べばどんな反応が返ってくるかは、火を見るより明らかである。
わたしは、すべての球児が専用球場でプレーできる野球のように、すべてのサッカー選手が専用競技場でプレーできる日本を夢見ている。環境がより充実すれば、野球界における大谷のような存在が日本のサッカー界に現れることも、絵空事ではないと信じている。
とはいえ、人口減少の続く時代に、新たにスタジアムの建設をするのは簡単なことではない。サッカー界としては、ラグビーと手を結ぶなり、使用頻度の高さにも耐えうるサーフェスを選択するといった、新しいアイデアが必要になってくる。
何より求められるのは、多くの日本国民が、サッカーには公金を投入してもいい、と思ってくれる空気を醸成すること。そのための方策はただ一つ。W杯における大躍進、である。
<この原稿は25年10月30日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>