人生とは、大どんでん返しの連続である。前年の甲子園出場経験をもつメンバーが残り、春の大会では四国大会で準優勝した2学年上の先輩はその夏、まさかの初戦敗退。その翌年、「史上最強」と謳われた1学年上の先輩は自分たちのミスで3回戦敗退に終わった。ところが、「史上最弱」と言われ続けてきた田中勇次たちの代が甲子園への切符をつかみとったのである。
「自分たちに失うものは何もない」
 田中たちにプレッシャーはなかった。あるのはただ、ようやくたどり着いた夢の舞台を楽しむことだけだった。
「オマエらは、ご褒美でここに来れたんやから、勝とうなんて考えずに、祭りだと思って楽しめばいいんや」
 選手たちをリラックスさせるためだろう、高橋広監督はそう言って選手たちを送り出したという。それが功を奏し、本荘高校(秋田)との1回戦、1点を争う接戦をサヨナラで制し、鳴門工は2回戦進出を果たした。

 夏の県大会前、後輩にレギュラーの座を譲り、控えにまわっていた田中に初戦での出場の機会は与えられなかった。しかし、その初戦でケガをした後輩に代わり、2回戦で田中は先発メンバーに入った。公式戦での先発出場は実に4カ月ぶりのことだった。その田中にチャンスがまわってきたのは、4回表だった。0−3とリードを許していた鳴門工は1死からヒットと四球で2人のランナーが出塁すると、エース実祐輔が送りバントを決めて、2死ながら二、三塁とした。打席には9番・田中。田中は初球のボール球を冷静に見送ると、2球目、真ん中に入った132キロの直球をライトへ弾き返した。これで2走者が返り、鳴門工は1点差に迫った。

「いやぁ、あの時のヒットは練習でも見たことがないくらいのクリーンヒットでしたよ」
 そう振り返るのは当時、鳴門工野球部のコーチを務めていた山口博史(現・高岡第一高野球部監督)だ。ヒットと四球で1死一、二塁の場面、山口は高橋監督が実に送りバントを指示したことに、「えっ、田中にまわすの!?」と多少の驚きを感じていたという。山口がそう思ったのも当然である。その試合の1打席目、送りバントを成功させていた田中だが、その年の夏、公式戦では一度も打席に立っていなかった。つまり、ヒットを打つ機会すら与えられていなかったバッターに指揮官は賭けたのだ。だが、田中はその期待に見事に応えてみせた。

 この一打に甲子園は一気にヒートアップした。山口は大舞台のムードをも変えた田中の姿に「あぁ、やっぱり野球の神様は見ているんだな」と思った。実は試合前、山口はこんな話を聞いていた。
「前日の夜、選手たちが練習をしていたところに雷が鳴ったようなんです。当然、選手たちは危険ですから引き上げた。ところが、田中だけは一人、残って素振りの練習をしていたんだそうです。いつも野球部の送迎をしてくれるマイクロバスの運転手がそれを見て、『明日は絶対に打てる!』と田中に言ったそうなんですよ」
 陰の努力を見ていた運転手の予言通り、田中は最高の1本を打ってみせたのだ。山口には、3年間の努力が全て、その1本に詰まっていたように感じられた。

 田中のタイムリーで1点差に迫った鳴門工だったが、その裏、2ランを浴び、再び3点ビハインドとなった。5回以降は追加点を許さなかったが、鳴門工打線からも快音が響くことはなかった。最終回、鳴門工は簡単に2死を取られる。そして、最後は田中が内野ゴロに倒れた。ボールがファーストミットにおさまった瞬間、田中の高校野球にピリオドが打たれた。だが試合後、鳴門工ナインに涙は一切なかった。甲子園を去るその後ろ姿は、清々しさを覚えた。「史上最弱」から這い上がり、全国の舞台で1勝を挙げた彼らには達成感だけだったのだろう。

 あれから4年経った今も、田中の脳裏に焼き付いているのは、3年間の過酷な練習だという。
「あれ以上、苦しいことはない」
 それは田中のみならず、鳴門工ナインの口癖だ。裏を返せば、鳴門工での3年間があったからこそ、今の田中が存在すると言っても過言ではない。その3年間、厳しく指導された高橋監督から教わった言葉は、田中の座右の銘となっている。
「天網恢々疏にして漏らさず」
 どんなに小さな悪事でも必ず天罰が下る、という意味の言葉だ。つまり、誰も知らないと思っていても、神様は見ているということだ。だからこそ、田中は陰の努力を怠らない。これまで何度も「野球の神様」が田中に微笑んだのは、そのことを知っているからだ。

 現在、高岡第一高(富山)で監督を務めている山口にとって、鳴門工での田中たちの代は今も強く印象に残っているという。
「努力によって甲子園に行った彼らたちは、指導者としての私にとっても、とてもありがたい存在なんです。彼らの姿を見て改めて高校生の可能性は無限大なんだと感じました。そして、諦めなければ目標は実現するものなんだ、ということを教えてもらったんです」
 山口はよく、田中たちの代の話を高岡第一の部員に話をするのだという。何の関わりもない彼らだが、甲子園を目指す球児たちの見本となっているのだ。

 田中は、いよいよ明治大学野球部としてのラストイヤーを迎えた。チームは昨秋、明治神宮大会で優勝を果たしたが、守備要員の出場に終わった田中には、喜びの中にもやはり悔しさがあった。
「自分が試合に出場して、勝利に貢献するかたちで優勝したい」
 果たして、田中に再び野球の神様は微笑むのか――。

(おわり)


田中勇次(たなか・ゆうじ)
1991年1月11日、兵庫県出身。鳴門工業高3年夏、主将として甲子園に出場。明治大では2年秋に内野手から外野手に転向し、翌年の春季リーグでは開幕スタメン入りを果たした。主に守備固めとして、昨秋には明治神宮大会優勝に貢献した。今年は主将としてチームを牽引する。170センチ、70キロ。右投右打。






(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから