宮本慎也が2000本安打を達成した翌日、元東京ヤクルトの後輩・鎌田祐哉がリーグ最多となる7勝目をあげた。防御率も1.75でリーグトップである。
 海の向こうの話だ。海の向こうといっても、もちろん米メジャーリーグではない。中華職業棒球大連盟(職棒)。要するに台湾プロ野球リーグである。鎌田は今年2月に台湾でテストを受け統一セブンイレブン・ライオンズに入団した。
 5日、台北の天母棒球場で行われた兄弟エレファンツ戦では新人王候補の林清に投げ勝った。7回9安打2失点とピリッとしなかったが要所を締めた。「マウンドがしっくりこなかったけどゲームで修正できた。柱として先発ローテーションで回るのは、これまで経験してこなかったこと。それだけに充実感がある」。日焼けした顔をほころばせながら33歳は言った。

 日本人投手コーチのアドバイスも光った。広島などでプレーした紀藤真琴。07、08年には東北楽天の1軍投手コーチを務めた。6回、ピンチの場面でマウンドに上がり、こう告げた。「歩幅をもう1、2ミリ狭くしろ」。ステップ幅を心持ち狭めることでボールに角度がつき、低めのストレートが甦った。

 この勝利でライオンズは前期優勝に一歩前進した。主に日本ハムで活躍した監督の中島輝士は「エラーやバント失敗など小さなミスがまだたくさんある。優勝するには、このあたりを修正しなければ…」。そう言って表情を引き締めた。

 野中徹博が俊国ベアーズに入団した年以来だから、国際大会を除くと19年ぶりに台湾プロ野球を取材した。戦前、台湾に野球を伝えたのは日本人だ。名門松山商を指導した近藤兵太郎が指揮を執る嘉義農林(現嘉義大学)は1931年、全国中等学校野球大会で台湾代表として初出場ながら準優勝に輝き、内地を驚かせた。同校は日・中・高砂の民族混成軍。作家の菊池寛をして「僕はすっかり嘉義びいきになった。異なる人種が同じ目的のために努力する姿はなんとなく涙ぐましい感じを起こさせる」と言わしめている。

 今は八百長事件の余波もあり、世間から厳しい視線にさらされている職棒である。しかし日本人が種を撒き、水をやり、今なお草取りを続ける野球はどっこい生きている。野球は日台の絆のシンボルでもあることを改めて確認した。

<この原稿は12年5月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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