クラブ一の“秀才プレーヤー”である。
 昨年春、早稲田大学人間科学科eスクールを卒業した。愛媛FCに最初に在籍した07年に入学し、インターネット経由で講義を受講。小テストやレポートを提出して単位を取得した。実際に大学に通う必要はないが、サッカー選手と学問を両立し、4年で卒業するのは容易ではない。
「でも僕らの仕事は有効に使えば、結構、時間はあるんですよ。練習だって1日のうちの数時間ですから」
 サラッと言い切るところに知的な香りが漂う。
 卒論のテーマは「Jリーガーのセカンドキャリア」。愛媛の広報を務める川井光一さんや、ジュニアユースの青野大介監督ら、選手引退後の仕事ぶりを約半年間かけてインタビュー。最終的には約1週間でA4で約60枚のレポートにまとめた。

 小さい頃から学ぶことは嫌いではなかった。
「中学校の頃までは勉強もできましたね。テストでもいい点を取っていました」
 両親が教師で塾に通っていた影響もあり、1日30分なら30分と時間を区切って毎日、勉強する習慣がついていた。eスクールでも、その要領でコツコツと受講を続けた。

「勉強に関しては要領がいいのかもしれませんね。それをサッカーにつなげられたらいいんですけど……」
 そう本人は苦笑するが、日々の練習でも努力を重ねる姿は誰もが認めている。クラブでは選手会会長を務め、昨年の東日本大震災に際してはチャリティーオークションや募金活動を企画、実施した。今季で愛媛在籍は5年目。そのクレバーさもあり、チームをまとめる上でも頼りになる存在である。

 「攻撃は考えなくてもできる」

 しかし、ピッチでひとたびボールを持てば、秀才ではなく“天才プレーヤー”へと変身する。広い視野で、相手陣内の空いたスペースを瞬時に見つけ、正確なパスでチャンスを演出する。セットプレーでのキックも武器のひとつだ。そのレベルの高いプレーには、キャプテンのMF前野貴徳も「よく動きを見ていて、キックの精度が高いので、思い切って飛び込める」と全幅の信頼を置いている。

 今季の愛媛FCは例年になく戦力が充実し、攻撃力がアップした。司令塔のMFトミッチが起点となり、左サイドの前野、内田健太が積極的に相手陣内へと侵入する。20歳のストライカー有田光希もリーグ2位タイの8ゴールをあげ、覚醒してきた。そんななか、開幕から右サイド、またはトップ下のポジションで愛媛の攻撃にアクセントをつけてきたのが大山である。ここまで17試合中16試合に出場。早くも昨季に並ぶ2得点を決め、ここ数年に増して存在感を示している。
「これまでと自分自身が変わった部分は特にないんですけど、コンディション的に体がキレていた部分に加えて、(イヴィッツア・)バルバリッチ監督のやりたいサッカーが自分の頭のなかでクリアになってきたのが大きいと思います」

 たとえば第3節(3月20日)の松本山雅FC戦。3−0と快勝した一戦で、大山は2得点をアシストした。ひとつ目は1点リードした後半35分。途中出場のFW福田健二のポストプレーから、右足で最終ラインの裏へ縦パスを供給。抜け出した赤井が確実にゴールネットを揺らした。もう1点は、それから6分後。左サイドから、相手DFの対応が難しいファーサイドへ絶妙のクロスを入れ、これまた赤井が合わせてゴールへと押し込んだ。「大山からいいボールが来ました」と赤井も感謝の2得点だった。

 ところが、ゴールの演出家は「ああいうのは考えなくてもできるところ。特別、意識したプレーではないですね」と平然と振り返る。そして、こうも続けた。
「スルーパスやクロスはあまり頭で考えてもうまくいくものではないと思うんです」
 ひとたびボールを持てば、その時のフィーリングで最善のキックが自然と出てくる。小さい頃からの積み重ねとはいえ、言うは易し行うは難し。まさに天賦の才が為せる業である。

 小学校時代からキラリと光る選手だった。当時は身長が他の選手より人一倍大きかったこともあり、地元の大宮では向かうところ敵なし。小学校6年時には唯一、ひとつ上のカテゴリーのU-14のナショナルトレセンに選出された。日本サッカー協会の主導で各地域から選抜された将来有望な選手を集め、さらなるレベルアップを図る場である。

 ここで大山は基礎を徹底して教わった。
「いかに味方がシュートをラクに打てるか、ラクに次のプレーにつなげられるか。そのためのパスの出し方を学びました。右足でつけて、左足で蹴るタイミングも含めて、何度も何度も練習しました。ここは自信を持っていますね」
 もともとあった才能は、より高いレベルで努力を重ねることでさらに磨かれていった。
「赤井さんへのアシストも、たとえば1本目はギリギリまでタメをつくって、赤井さんのスピードを殺さず、シュートを打ちやすいタイミングで出せました。その意味では、昔からやってきたプレーが自然とできたのではないかと思います」
 
 ボランチ経験で才能開花
 
 浦和レッズのジュニアユースからユースへ。トップチーム昇格が見込まれる有望株として早い時期から期待された。その能力をさらに開花させたのが、ユース時代の菅野将晃監督(当時)である。
「大柄だけどテクニックもある。今と変わらず、キックもいいものをもっていましたよ。サッカー選手にとってはキックは一番の武器ですからね。プロとして魅せることのできる要素は持っているなと感じました」
 現在は女子サッカーチームのノジマステラ神奈川で指揮を執る菅野は大山の第一印象をそう明かす。

 ユースに入ってからの大山はケガもあり、サイドハーフのポジションでは、やや伸び悩んでいた。
「技術も広い視野も持っているのにボールに絡めていない。これはもったいない」
 菅野は大山をボランチにコンバートすることを決断する。
「ボールに絡む回数を増やせば、彼の持ち味も出てくるのではないかと感じました」

 結果的には、このボランチ経験が大きな転機となる。菅野の指示もあり、大山は中盤の底から、どんどん空いたスペースへパスを出した。もともとキックの精度は高かっただけに、この起用はハマった。実戦でボールを蹴るうちに、さらに大山の長所は磨かれていった。
「ユース年代では、どうしても視野が狭いし、技術もないのでフリーのエリアにボールを出せない選手が多いんです。でも俊輔は、こちらが出してほしいところへボールを出せる。新しい魅力が出せたなと感じました」

 そのプレーぶりが首脳陣の目に留まり、ユースに所属しながら大山はトップチームに帯同する機会を得る。そして04年11月の柏レイソル戦では18歳7カ月で初出場。これは当時のクラブ史上最年少出場記録だった。同年の浦和は悲願のステージ初優勝を決め、J屈指の強豪へと変革を遂げつつあった。V決定後の消化試合とはいえ、18歳の少年が優勝クラブのユニホームを着て、J1のピッチに立ったことは驚きをもって伝えられた。

「菅野さんのおかげでプロの人生を歩めるようになりました。だから、とても感謝しています」
 翌05年にはトップチームとプロ契約。だが、年齢に関係なく結果を求められるプロの世界で、“天才プレーヤー”は大きな壁にぶつかることとなる……。 

(後編につづく)

<大山俊輔(おおやま・しゅんすけ)プロフィール>
1986年4月6日、埼玉県出身。ポジションはMF。将来有望な選手として小学6年時にはU-14のナショナルトレセンにも選ばれる。浦和レッズのジュニアユースを経て、ユース時代の04年にはクラブ史上最年少(当時)のJ1リーグ戦出場を果たす。05年にトップチーム昇格。出場機会を求めて07年に愛媛FCへ期限付き移籍。46試合に出場する。翌年は湘南ベルマーレへ移籍するが、09年からは再び愛媛へ。視野の広さと精度の高いキックを武器にチャンスを演出する。昨季までJ1通算1試合0得点、J2通算156試合5得点。今季は6月4日現在、16試合2得点。身長179cm、73kg。
(写真:(c)EHIMEFC)



(石田洋之)
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