秋元がキーパーを始めたのは、ふとしたきっかけだった。
 幼稚園の頃からボールを蹴り始め、小学校時代のポジションはFW。体は周囲の選手より大きく、それを生かして点を獲りまくった。そんななか、ある試合でPK戦に突入した際、チーム内でGKに名乗り出る人間がいなかった。自ら立候補してゴールマウスの前に立つと、相手のキックをすべて止めた。この神がかり的な活躍が転機となり、以来、ゴールを奪う側からゴールを守る側へとプレーの場を移すことになった。
(写真:(c)EHIMEFC)
 中学校時代から横浜FMのジュニアユース、ユースとマリノス一筋。現在、トップチームの守護神である飯倉とはジュニアユース時代から、ともに切磋琢磨してきた。飯倉はひとつ年下の秋元のことを「初めて会った時から体がゴリラみたいにがっちりしていて(笑)、身体能力も高い。最初からうまいキーパーでしたね」と一目置いていた。ユースではプリンスリーグU-18の関東地区優勝、全日本クラブユース選手権の準優勝に貢献。世代別の代表にもU-16を皮切りに毎年選ばれた。06年にはハーフナー・マイク(フィテッセ)とともにユースからトップチームへ昇格。内田篤人(シャルケ04)、槙野智章(浦和)らとU-19代表として中東遠征も経験した。

 大ケガで知った自分

 サッカー選手として確実にキャリアアップを遂げていた秋元に試練が訪れたのは、プロ1年目の10月だ。サテライトリーグの試合中、DFラインの裏へ出たボールをクリアした際に体のバランスを崩し、左ヒザにすべての体重が乗っかった。今まで経験したことのない痛みがヒザを襲う。診断結果は前十字靭帯と内側側副靭帯の断裂。手術を受け、約8カ月間の戦線離脱を余儀なくされた。クラブでも代表でもアピールの機会を奪われ、長く苦しいリハビリの日々が続いた。

「今になってみれば、若い時にケガをして良かったなと感じます」
 秋元は19歳で迎えた大きな苦難をそう振り返る。ケガによって自分自身と初めて向き合う時間ができたからだ。リハビリ中、チームのトレーナーとはマンツーマンで自分のフィジカル面の弱点を徹底的に鍛え直した。バランスを崩して故障した反省に基づき、体幹の筋肉を鍛え、左右の筋肉量の差を改善した。ただ筋肉をつけるだけではなく、肩の可動域を広げ、柔軟性をアップさせた。「それが今、ずっと試合に出てもケガなくできている下地になっている」と自身はとらえている。今では、もうヒザの痛みは全く出ていない。 

 指導者との出会いも大きかった。リハビリ中だったプロ2年目のシーズン、GKコーチに松永がやってきた。
「シュートストップがうまかったですね。これはキーパーにとっての第一条件。ユース時代からウワサは聞いていたけど、いいキーパーだと感じました」
 素質を見込んだ松永は基礎を徹底して叩きこんだ。居残り練習に付き合い、いろいろな状況を想定して何本も何本もクロスやシュートを打ちこみ、対処法を指導した。

 ケガが癒え、キーパーとしても成長した秋元にとって念願のデビューは3年目にやってくる。08年7月13日、ホームでのアルビレックス新潟戦。リーグ戦で連敗中だったマリノスは、当時の正GKだった榎本哲也に代え、ずっとサブだった秋元にスタメンのチャンスを与えた。先発を告げられたのは試合前のミーティングだった。
「大丈夫だ。思い切って自分のプレーをしろ!」
 松永からはそうピッチに送り出された。経験豊富な中澤佑二らDFラインの選手を統率して1失点。試合には敗れたものの、秋元は「いつも通りやれば、自分でもできる」と手応えをつかんだ。

 背中を押した齋藤学の一言

 しかし、プロは結果がすべて。その後、2試合連続でスタメンに名を連ねながらチームは勝てなかった。松永は当時の秋元について、「好不調の波があった」と明かす。
「試合によって、いい時と悪い時があるし、90分の中でもいいプレーと悪いプレーが分かれる。やはりキーパーは波があると困るポジション。力はあっただけにもったいなかったですよ。その課題さえ克服してくれれば、榎本や飯倉と比べても遜色はなかったんですから……」
 練習では素晴らしいプレーを連発しながら、実戦になると持ち味を出せない。そんな“勝負弱さ”も松永は気になっていた。試合に臨む心構えも含め、何度も本人とは話し合いを重ね、トレーニングを続けた。
  
 ただ、マリノス時代の秋元は、松永が求めたハードルを完全にクリアすることができなかった。何よりも勝利が第一のプロの世界では、ピッチに出てみなければ出来が読めない選手は起用しづらい。特に上位進出が至上命題となる強豪クラブであれば、それはなおさらである。08年こそクラブでは榎本に次ぐ存在だった秋元だが、徐々に先輩の飯倉と立場が逆転し、10年、11年は公式戦出場は1試合ずつ。ベンチ入りの機会すら少なくなっていった。

「試合に出たい。自分の今の力を試したい」
 現状を打破すべく、昨オフ、秋元は環境を変える道を選ぶ。移籍先を探すなか、最初に獲得のオファーを出したのが愛媛だった。
「とは言っても、移籍は初めてだったので多少は迷いがありました」
 悩む背中を押したのが、ユース時代からの後輩でもある齋藤学だ。齋藤は11年シーズン、愛媛へ期限付き移籍。ストライカーとして獅子奮迅の働きをみせ、リーグ3位の14得点をマークしていた。

「松山はいい街だし、愛媛は優しい人も多い。いいチームですよ」
 齋藤はチームの様子や環境、生活面に関して、いろいろと伝え、秋元の不安を解消していった。
「アキさん、絶対、愛媛ならやれますよ」
 そう断言した後輩の顔は1年のうちに随分、たくましくなっていた。その表情を見れば、四国の地でいかに充実した日々を送ってきたかは一目瞭然だった。間もなく、秋元は愛媛行きを決断する。

 オレンジのユニホームを身にまとうにあたり、秋元はさらなる体力強化に取り組んだ。横浜FM時代から付き合っていた年上の彼女(この5月に入籍)と一緒に松山に移り住み、食事面で厚いサポートを受けた。
「僕はもともと好き嫌いがあるタイプだったのですが、彼女は料理が得意で、体重を増やしながらも、かつ動ける体づくりを目的にメニューを考えてくれました。本当に感謝しています」
 現在、妻となった彼女と暮らすマンションにはトレーニングルームを設けている。空き時間を見つけては自宅でも筋力アップに励んだ結果、昨年から体重は7キロ増。安定した体が安定したプレーにつながっている。

「名前先行の選手にはなりたくない」 

 そんな愛媛での成長ぶりをテレビでチェックしているという松永は、「今はチームの中心になって、自信を持って、いい動きをしています。でも、1年間やったことがないから、この夏場以降が勝負。ぜひ秋元とはJ1の舞台で再会したいですね」とエールを送る。もちろん秋元も現状には満足してはいない。
「毎日の練習から好不調の波をなくして、よりチームに安心感を与えたい」
 マリノス時代から指摘されていた課題の克服が目下のテーマだ。

 秋元には理想のキーパー像がある。
「いい意味で目立たない選手になりたいですね」
 GKがクローズアップされる試合は決して良くない。それがゴールマウスを守る男の考えだ。プロは有名になってナンボの世界でもあるが、「名前だけが先行する選手にはなりたくない」とも言い切る。
「プレーの部分で、まず誰が見ても“いいキーパーだな”と思ってもらえる実力を身につけたい。“あ、あのキーパー、秋元って言うんだね”って名前は後からついてくるかたちでいいと感じています」

 事前に入念な準備をして、後方からフィールドプレーヤーに的確に指示を出し、90分間、シュートを1本も打たれず、終了のホイッスルを聞く。観ている人間にはGKが誰だったか全く印象に残らない――それが常に思い描いている最高のゲームプランだ。残念ながら、まだ現実はイメージには程遠い。このところ6試合連続で失点中。17日の四国ダービーで3点を奪われて敗れた際には自らへの不甲斐なさから涙がこぼれた。

 シーズン前半を終え、愛媛はプレーオフ出場圏内(6位以内)に勝ち点6差の9位につけている。得点力は例年以上にあるだけに、失点を減らせば、もっと勝ち点は伸びるはずだ。残り半分の21試合で、理想に一歩でも二歩でも近づいた時、チームも自分も、より高みを目指せると秋元は信じている。 

(おわり)
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<秋元陽太(あきもと・ようた)プロフィール>
1987年7月11日、東京都出身。ポジションはGK。横浜F・マリノスジュニアユース菅田、同ユースを経て06年からトップチームに昇格。U-19日本代表にも選出される。3年目の08年に念願のJ1リーグ戦初出場(第16節、新潟戦)を果たすが、その後も出場機会に恵まれず、今季より愛媛に完全移籍。高い身体能力を活かした確実なセービングと、攻撃の起点ともなる精度の高いフィードボールが武器。昨季までJ1リーグ通算5試合出場。今季は6月25日現在、全21試合にスタメン出場を果たしている。身長181cm、75kg。背番号は37。

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(石田洋之)
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