「オマエ、すっごいな! えらいよ!」。
 2008年9月、北京パラリンピックに出場した木村は、最も苦手としていた100メートル自由形で、予選で自己ベストを4秒更新。決勝でもさらに1秒縮め、合計5秒も更新するという驚異的な泳ぎを見せた。すると、普段はほとんど褒めることのない恩師の寺西真人が涙を流しながら喜びを爆発させていた。
「初めて先生に褒められましたね。記録が更新できたこと以上に、先生が喜んでくれたことに驚きました。でも、それがとても嬉しかったんです」
 メダルを狙っていた平泳ぎではトップと5秒差をつけられ、惨敗の5位。悔しさだけが残った。だが、自由形での5位は可能性の大きさを感じさせるものだった。だが、その時の木村はまだ、そのことに気づいていなかった。
(写真:恩師・寺西先生<左>とは深い信頼関係を築いてきた木村)
 北京後も木村は自分のメインは平泳ぎだと考えていた。相変わらず、自由形は苦しいだけで好きにはなれなかった。ところが、記録は気持ちとは逆だった。なかなかタイムを縮めることができず、北京で味わった屈辱の5秒差を埋められない平泳ぎに対して、自由形は順調に自己ベストを更新していったのだ。

 決定的だったのは2010年広州アジアパラリンピックだった。50メートル自由形に出場した木村は、自己ベストとなる26秒87の好タイムで金メダルを獲得したのだ。
「26秒台が出るなら、世界で勝負できるかもしれない」
 木村はほんの少し、世界に近づいたように感じた。そして、この時を境に、木村は平泳ぎから自由形へとメインを移行していったのである。

  変化したパラリンピックへの重み

 今年7月3日、日本パラリンピック委員会(JPC)からロンドンパラリンピックの日本代表選手が発表された。もちろん、そこには「木村敬一」の名もあった。木村は4年前とは違う自分を感じていた。
「北京の時は、選ばれたという時点で、既に満足していたところがありました。ですから、正式に決定した時、一度フッと力が抜けたんです。でも、今回はそういうことはありませんでした。2回目のロンドンでは、もう行くだけでは絶対にイヤなんです。どうしても結果が欲しい」
 木村は珍しく語気を強めた。

 彼にとって、北京とロンドンとでは、同じパラリンピックでも、その意味合いは全く違っているのだ。
「北京の時は、1年前くらいになって、ようやく本気で目指し始めたんです。それまでは自分がパラリンピックに行けるなんて思ってもいなかった。ただ試合のたびに速くなっていくだけで嬉しかったんです。でも、北京以降の4年間はずっとパラリンピックのことだけを考えて泳いできた。北京の時とは重みが全く違います」

 こうした彼の気持ちの変化には、寺西も気づいていた。これまで河合純一、酒井喜和、秋山里奈と3人ものメダリストを育ててきた寺西には、十分に予測していたことでもあった。
「2回目、3回目と出場回数が増えるたびに、プレッシャーがのしかかってくるもんだよ」
 寺西がそう言うと、昨年までの木村はこう答えていたという。
「僕は大丈夫ですよ(笑)」

 ところが、今年に入ってからの木村は「緊張」という言葉を発するようになっていた。
「木村にとって、最大の敵はそこです」
 寺西はそう言って、次のように語った。
「木村が世界の選手たちよりも勝っているものは、気持ちなんです。とにかく負けず嫌いだということ。その気持ちの面で、どこまで頑張ることができるかがカギを握っています」

 “肉体美””から見てとれる思いの丈

 ロンドンへの思いの丈は、木村の身体にもはっきりと表れている。17歳で出場した北京の時は、もちろんトレーニングで鍛えていたとはいえ、まだまだ細身であった。だが、現在の木村の身体はまさに“肉体美”そのものである。これは「今では泳ぐよりも好きになった」というウエイトトレーニングの賜物に他ならない。特に昨年10月からは、木村が所属している日本大学の水泳サークルの顧問を務める野口智博の指導の下、週に1度、トレーニングを行なっている。

 木村がロンドンで最もメダルの可能性を感じているのが、50メートル自由形だ。50メートルという短距離だからこそ、筋力アップは不可欠だと野口は言う。
「水中で速く進もうとすればするほど、水から受ける抵抗力も大きくなります。つまり、その抵抗に打ち勝つパワーが必要となるんです。パワーというのは、最大筋力とスピードが掛け合わせられたものですので、そのアプローチをせずして、50メートルのレベルアップはできません」
木村も筋力アップによるスピード強化を目指していた。そのため、野口にトレーニングの依頼を申し込んだのだ。

 実は野口は最初、木村にはバーベルを持ち上げるなどの大きな負荷がかかるフリーウエイトまでは無理だろうと考えていたという。
「視覚に障害があるので、フリーウエイトは危険だと思ったんです。ケガをしてパラリンピックに出場できなくなっては大変だという思いがあったので、正直、フリーウエイトは計算には入れていませんでした」
 ところが、木村は野口が考えていた以上に意欲的にトレーニングに励み、出された課題を次から次へとクリアしていったのだ。
「これはもうフリーウエイトをさせなくては、と思いました。もう、マシンの重量もいっぱいいっぱいでしたから、これ以上鍛えるには無理があったんです」

 今年2月からは少しずつフリーウエイトのメニューを加えていった。最初はケガをしないか心配だったという野口だが、すぐにそれは解消されたという。
「初めてフリーウエイトをやった時、『あ、これは大丈夫だな』と思いました。むしろ、こちらが心配するほどではないということがわかったんです」

 現在はスピードアップにつながるトレーニングを行なっている。負荷を落とし、酸素需要が大きい反射的な動きを取り入れたメニューに切り替わっている。これまで鍛え上げた筋力とのバランスを整え、より力強い泳ぎが実現すれば、メダル圏内と予想される26秒前半の記録は十分にある、と野口は踏んでいる。

 恩師からの期待と信頼

(8月29日の開会式では旗手を務める)
 こうしたさまざまなバックアップがあってこそ、ロンドンの道が開かれたことは、木村自身が最も感じていることだろう。「だからこそ」と寺西は言う。
「大学をはじめ、周りから大きな支援を受けて今の自分があるとわかっているからこそ、寄せられている期待を裏切ることができないという気持ちがあるのでしょう」
 21歳の木村は日本代表が何たるかを十分に理解しているのだ。それは寺西にしてみれば、大きな成長のひとつとして映っている。

「確か木村が中学2年の時だったと思います。3年生の卒業式の日、国歌斉唱の時にみんなが起立しているというのに、一人ボーッと座っていたんです。これには、こっぴどく怒りましたね。日本代表の合宿に呼ばれるようになっていた頃でしたから、『オマエは日の丸の重みをわかっているのか!?』と。その木村が、今では周囲の期待に応えようと必死になっている。改めて成長を感じています」

 そして、こう続けた。
「木村はこれまでも期待に応えてきてくれました。だから、アイツなら大丈夫です。なんか、感覚としてわかるんですよね。ロンドンでは、また私から褒められるほどのことをやってくれるはずです」
 寺西は50メートル自由形以外の種目でも、メダルの期待を寄せている。特に疲労が出やすい最終日の200メートル個人メドレーは、他選手が調子を落とす中、木村がスルリとメダルを獲ってしまうのではないか、とにらんでいるのだ。

 8月29日、ロンドンパラリンピックの開会式、会場に「JAPAN」が鳴り響くと同時に、先頭で入場するのが木村である。135名の選手の中から、木村は旗手という大役に抜擢されたのだ。日本選手団からも木村への期待と信頼がいかに大きいかがわかる。しかし、それだけプレッシャーが募りはしないのか……。
「木村はプレッシャーをかけた方が、それを跳ね返そうと、力を発揮するタイプですから、いい刺激になっていると思いますよ」
 中学時代から見てきた寺西にとって、木村は息子のような存在だという。そんな寺西の言葉には愛情と信頼がにじみ出ている。約1カ月後、涙して喜ぶ恩師と、それを見て満面の笑顔を見せる木村の姿が再び見られることだろう。

木村敬一(きむら・けいいち)
1990年9月11日、滋賀県生まれ。増殖性硝子体網膜症で2歳の時に全盲となる。小学4年から水泳を始め、単身上京した筑波大学付属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)で水泳部に所属。中学3年時に出場した世界ユース選手権大会で金、銀、銅と3個のメダルを獲得し、2007年の日本身体障害者水泳選手権では平泳ぎ100メートルで日本記録をマークして優勝。高校3年時に臨んだ08年北京パラリンピックでは5種目に出場し、100メートル平泳ぎと100メートル自由形で5位、100メートルバタフライで6位に入賞した。現在、日本大学4年。ロンドンパラリンピックでは初のメダルを狙う。

(斎藤寿子)
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