日本が陸上のトラック種目の中で、世界との距離が一番近いとされるのが400メートルハードルだ。現在、同種目の日本のエースは、今夏のロンドン五輪に出場した法政大学陸上部の岸本鷹幸である。これまで苅部俊二、山崎一彦、斎藤嘉彦、為末大、成迫健児ら、数々の日本人ハードラーが世界に挑んできた。世界陸上選手権では山崎がイエテボリ大会(1995年)で7位入賞、為末はエドモントン(2001年)、ヘルシンキ大会(05年)で銅メダルを獲得した。だが、五輪においては、今までファイナルへと辿り着いた者はいなかった。その先輩たちが超えられなかったハードルを、ロンドンで挑んだのが岸本だった。


 岸本の最大の強みは、どんな場面でも自然体でいられることだ。好きな言葉は「マイペース」。競技に限らず、何事においてもプレッシャーが重荷になることはない。むしろ、その緊張感を楽しむ余裕すら窺える。敵が強ければ強いほど、壁が高ければ高いほど、奮い立つ性格なのだ。ただ、普段から自然体であるがゆえ、オリンピック選手だと気付かれないこともしばしばだという。岸本が通う法政大学内でさえ、彼のことを知らない人間は少なくない。華奢な体つき。その大人しそうな風貌から一見、“草食系”と思わせるふしがある。だが、こと競技になると、その表情は一変する。猛禽類が獲物を狙うが如く鋭い眼光は“肉食”の匂いを漂わせる。インタビューでも、淡々と答える姿は、まさに自然体である。だが、その飄々とした態度の懐には、“熱き闘志”という刀を忍ばせているのだ。

 岸本は海と山に囲まれた青森県のむつ市で生まれた。大自然の中で、のびのび育った岸本は、生後8カ月にはもう歩き出していたという。小さい頃は海で泳ぎ、山を駆け回って遊んだ。また、冬場になり雪が積もれば、スキーを楽しんだ。こうした遊び場が天然のトレーニング場となっていた。スポーツの語源が“遊び”であるように、岸本も遊びながらにしてアスリートの礎を築いていったのだ。そんな彼の性格を母親は当時を振り返り、こう語る。
「よく外で遊んでいましたね。でもヤンチャっていうほどではなかったです。外で遊んでいても、夕方5時の鐘が鳴るとすぐに帰って来ました。手のかからない子でしたね」
 運動神経が良く、勉強もソツなくこなした。2人兄弟の長男で、しっかり者だった。父親は海上自衛隊員で、航海に出れば家を空けることも多かった。1人で家を守る母親からすれば、孝行息子の存在はありがたかった。岸本は子供の頃からTVゲームが好きで、父親と一緒に遊んだ。「いつも弱い相手とではなく、強い相手とやりたがっていましたね」と、母親は口にする。それは競技にも通じていた。「大会でも強い選手がいると、“一緒に走ってみたい”と言っていましたね。たとえ、その相手に負けたとしても、“次は絶対勝ってやる”と怯みませんでした」。負けず嫌いで、手強い敵にこそ闘志を燃やす――。それは今も何ら変わってはいない。

 そんな岸本が陸上を始めたのは小学校の4年の時、学校の部活動に母親が勧めたのがきっかけだった。とはいえ、両親が陸上選手だったわけではない。地元の町が、陸上競技が盛んだったわけでもない。その理由を母親は「個人競技だったらからです。成功しても、失敗しても自分の責任ですから。それが鷹幸に合っていると思いました」と説明する。岸本のマイペースな性格と運動神経の良さを考えれば、自然と出た答えだった。ところが、指導する先生がいなくなったために5年の時に陸上部は廃部となってしまった。代わりに岸本はミニバスケットボール部に入ったが、母親の予想通り団体競技はソリが合わず1、2カ月で辞めてしまった。

 ハードルへの転向、覚醒する才能

 一度は陸上から離れた岸本だが、中学では再び陸上部に入った。それは陸上が好きだったからではない。中学では部活動に入ることが義務付けられていた。それだったらと、経験のある陸上を選んだ。ただ、それだけだった。ハードルとの出合いは、中学1年の時だ。ある日、陸上部の顧問に「ハードルをやってみろ」と言われるがまま、110メートルハードルに挑戦した。そのまま大会に出場することになり、それ以降、岸本は110メートルハードルの選手となった。ただ、中学ではケガなどもあって、目立った成績はあげられなかった。

 高校は地元の大湊高校に入学した。陸上部顧問の舘岡清人から見て、岸本は特別な輝きを放っていたわけではなかった。「中学で成績を残していたわけじゃないですし、体も華奢で目立たなかった」というのが、入部当初の印象だった。高校1年の秋、専門の110メートルハードルに加え、舘岡の勧めで400メートルハードルにエントリーすることとなった。その理由を訊ねると、「ほかの選手も2、3種目は出ていましたので、彼にも“1種目だけじゃなくて、他の種目も出たら?”と言っただけです。それがたまたま400ハードルハードルだっただけで、そんな大それたことじゃないです」と舘岡は笑った。あくまでも他種目への経験で視野や幅を広げることが狙いだったという。

 岸本にとって400メートルハードルは専門外の種目だったため、それに対する知識は全くなかった。先輩からのアドバイスのまま、ハードル間の歩数を10台中5台目まで13歩にした。それが当たり前だと思い、その歩数で岸本は走った。だが、それは決して容易いものではなかった。「今の高校のトップレベルの子たちでも、13歩で走っている子なんて、何年かに1人か2人だと思います」と、舘岡は話す。ハードル間の距離は35メートル。それを13歩で走るのは、1歩を約2.7メートルの間隔で走らなくてはならない。ストライドの大きい長身選手やトップレベルの技術を持った選手にとっては、スタンダードな歩数でも、小柄で初心者の岸本にすれば難しいはずだった。実は、アドバイスをした先輩は冗談のつもりで言ったのだ。ところが、それをこなしてしまった岸本に、歩数を教えた先輩も驚いたという。ほぼぶっつけ本番で臨んだ県の新人戦では2位。才能の片鱗を見せたが、岸本自身は“自分はトッパー(110メートルハードルの通称)の選手”という気持ちが残っており、その後も400メートルハードルの練習に特別打ち込むということはなかった。

 それでも高校2年の全国高校総合体育大会(インターハイ)では400メートルハードルで準決勝に進出した。しかし準決勝では、出場選手中17番目のタイムに終わり、決勝に進むことはできなかった。この敗戦の悔しさが岸本の闘争心に火をつけた。それ以降、本格的に400メートルハードルの練習に取り組むようになった。

 そして、岸本に転機が訪れる。顧問の舘岡は、もうひとりの顧問であった鈴木俊博と相談し、岸本のハードル間の歩数変更を試みることにした。本人も「バウンディング(弾み気味に走ること)してしまっていた」と振り返る通り、この歩数での走りをマスターしていたわけではなかった。そこで歩数を1台目から最後までオール15歩に変えたのだ。これによって、全ハードルを同じ踏み切り足で跳ぶことができる。つまり利き足で跳ぶことにより、岸本が苦手とする逆足で跳ばずにすむのだ。それまで前半型だった岸本のレーススタイルは後半型へとモデルチェンジした。「後半にスピードが出るようになった」と、新スタイルに手応えを掴んだ岸本は、その年、秋田で行なわれた国民体育大会(少年A)で2位に入ると、日本ユース選手権では優勝した。高校3年になると、埼玉でのインターハイで初優勝を収め、続く大分国体(少年A)も高校歴代4位の記録(50秒17)で制した。さらに日本ジュニア・ユース選手権も優勝し、高校3冠を手にした。3年になってからは、出場した大会では負け知らず。岸本は一気に高校生のトップハードラーへと躍り出たのだった。

 恩師との出会い、引き出された潜在能力

 高校卒業後、岸本は親元を離れ、東京の法政大学に入学した。同大学の陸上部は、数多くの五輪選手を輩出している名門だ。だが、岸本が同大学を選んだ理由は、陸上部監督の苅部俊二の存在だった。苅部は現役時代、400メートルハードルなどでアトランタ、シドニー五輪に出場し、トップ選手として活躍した。岸本が初めて苅部に会ったのは、高校2年の選抜合宿だった。そこで、岸本は苅部の人柄と指導法に惹かれた。一方の苅部も岸本の才能に惚れ込んでいた。実は合宿で会う前に観戦した大会で、苅部は岸本の走りを見ていた。「ひとりだけ違う動きをしている選手がいたんですよ。13歩で、すごく滑らかにスーッと走っていて、飛び抜けていい動きをしていた。それが岸本だったんです」。合宿後、大会はもちろん、青森にも顔を出し、苅部は岸本を熱心に法大に誘ったという。つまり、2人は相思相愛だったのだ。

 苅部は岸本の入部後、早速ハードル間の歩数変更に着手した。走力のある海外勢と勝負するためには、前半からスピードに乗らなくてはならない。そのため、オール15歩ではなく、前半の5台を13歩に戻し、その走りをマスターする必要があった。高校時代、13歩で走った経験があるとはいえ、完璧だったわけではない。苅部は高校時代の岸本の走りを「逆足がまずできなかったということ。ちょっと間延びするような感じで、ただ、自分の体が13歩でいけるからいくという感じだった」と分析する。ハードリングの技術の向上が不可欠だった。

 岸本は入部当時を振り返り、「練習についていけなかったですね」と苦笑を浮かべる。だが高校時代と比べて、質も量もあがった練習を積むことで、着実に進化を遂げていった。指導する苅部の「1年ぐらいかけようと思っていましたが、1年もかからないうちにすぐに巧くなりましたね」との言葉通り、メキメキと力をつけていった岸本は、1年の秋に出場した日本ジュニア選手権では初の49秒台(49秒86)を叩き出し、連覇を達成した。

 さらに2011年、岸本は一気にブレークした。静岡国際陸上で2位に入り、49秒27の好タイムをマーク。これは同年夏、韓国・大邱で行なわれた世界陸上の派遣A標準記録(49秒40)を突破するものだった。そして迎えた日本選手権、優勝すれば日本代表として世界陸上への切符を手にする。岸本は予選2組をトップ通過し、決勝に進出した。彼にとって、日本選手権の決勝は初めての大舞台。同レースには法大OBであり、尊敬する先輩の為末大も出場していた。それでも物怖じすることなく、苅部の指示通り、序盤から飛ばしていった。最後の直線では追いすがるライバルたちから逃げ切り、トップでゴールテープを切った。奇しくも3年前、初めてインターハイを制した時と同じ埼玉県熊谷市の競技場で、日本一の称号を手にしたのだった。

(後編につづく)

岸本鷹幸(きしもと・たかゆき)プロフィール>
1990年5月6日、青森県生まれ。小学4年で陸上競技を始め、中学から110メートルハードルの専門になる。大湊高校で、400メートルハードルに転向。高校3年にはインターハイ、大分国体(少年A)、日本ジュニア選手権を制し、3冠を達成した。法政大学進学後は、09年に日本ジュニア選手権を連覇し49秒台(49秒86)をマーク。11年には、日本選手権で初優勝を飾った。同年のユニバーシアードでは銀メダルを獲得。世界選手権では準決勝進出を果たす。今年は静岡国際、川崎GPなどを制すると、日本選手権では日本歴代5位の48秒41で連覇を達成した。ロンドン五輪日本代表。171センチ、61キロ。

(杉浦泰介)


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