2010年12月、中国・広州で行なわれたアジアパラ競技大会、米田真由美は銀メダルに輝いた。アテネ、北京とパラリンピックに出場できなかった米田は、北京後は寝技の強化を図ってきた。その寝技に自信をつけたのが、そのアジアパラだった。表彰式では、銀メダルを首に下げ、清々しい笑顔の米田の姿があった。だが、実はこの1カ月前、米田は柔道人生の崖っぷちに立たされていたのである。

「米田、柔道を辞めるか!?」
 11月、全日本視覚障害者柔道大会、女子52キロ超級決勝で、米田は同僚の後輩である田中亜弧にきれいに払い腰を決められ、一本負けを喫した。講道館指導員で、米田が師事する鮫島元成が納得できなかったのは、結果ではなく、その内容だった。米田に勝利への執念が感じられなかったのだ。これでは、ロンドンを目指すどころの話ではなかった。

 その試合、先に技をしかけたのは米田だった。練習を積み重ねてきた寝技にもちこみかけたが、動きが止まり「待て!」がかかった。その後、立ち技に移ると、今度はいつもの悪いクセが出た。視覚障害者柔道では組んだ状態で「はじめ」がかかる。その際、力が入り、無意識に押しにいくことがある。すると、逆に相手にその力を利用されて技をかけられてしまう危険があるのだ。それがわかっていながら、米田は試合になると、押しにいってしまうことがある。この試合も米田がふっと押しにいったところを、その力を利用した田中にきれいに払い腰を決められ、「一本」を取られてしまったのだ。練習ではできていることが、本番ではできなくなってしまう自分が、米田は情けなかった。

 一方、鮫島は米田にとって、ここが正念場となることを感じていた。
「優しい性格だけに、勝利への執着心が足りないところがあるんです。もう、何度も同じ負け方をしている。もちろん、本人もわかっていたと思いますが、私が言うことで、より肝に銘じてほしいと思ったんです。我々は、負けた時にこそ、どういう指導をするかが重要。だからこそ、いつにも増して真剣に叱りました」

 指導を受けるようになって4年目の米田は、鮫島の気持ちを理解していた。
「先生にここまで叱られたのは初めてでした。でもそれは、私に何かを考えさせたかったからこそ、あれだけ厳しい言葉をかけられたのだと」
 米田は深々と頭を下げ、「今回の結果は自分でしっかりと反省しますので、続けさせてください」と言った。1カ月後にアジアパラを控えていた米田に、鮫島はこう告げた。
「アジアパラで結果を出せなければ、後はないくらいの気持ちでいかなくてはダメだ」
 これまでにない厳しい言葉に、米田は気持ちを引き締めた。

 こうして競技人生をかけて挑んだアジアパラ、米田は初戦で中国の選手と対戦したが、関節技を極められ、「まいった」の一本負けを喫した。だが、この敗戦が彼女の闘志に火をつけた。総当たり戦、第2試合に挑んだ米田はタイの選手に腕がらみを決め、続く第3試合ではモンゴルの選手に袈裟固めで一本勝ち。練習を積み重ねてきた寝技での勝利に、米田は自分自身への手応えをつかんでいた。

 努力でつかんだ奇跡的な幸運

 米田が寝技の習得に力を入れたのは、今から4年前のことだ。アテネに続いて北京をも逃した彼女に、鮫島はこう告げた。
「立ち技はセンスが必要だが、寝技は努力したらした分だけ身に付く。正直、オマエにはセンスがない。だが、誰よりも練習は一生懸命だ。ならば、努力して結果を出すことのできる寝技に比重を置いて、ロンドンを目指してみないか」

 それが、米田の柔道を大きく変えることとなった。それまで練習では立ち技が主体だったが、寝技を重点的に行なうようになっていった。そして、試合では立ち技で決めにいっていたものが、立ち技からどうやって寝技にもちこむかが勝負のカギを握るようになっていったのである。

 とはいえ、すぐに習得できたわけではない。決して器用な方ではない米田は、一つの技を身に付けるには他人の何倍もの時間を要した。何度も繰り返し行ないながら、少しずつ覚えていったのだ。
「鮫島先生は一つひとつ丁寧に教えてくれました。私が納得するまで、何度でも手本をやって見せてくれた。だからこそ、ここまで成長できたんです」

 しかし、それでも世界の壁は厚かった。視覚障害者柔道ではパラリンピックの切符を獲得するには、まず国際視覚障害者スポーツ協会(IBSA)が指定する国際大会に出場し、ポイントを獲得しなければならない。その合計ポイントによって国別世界ランキングが決定する。その上位8カ国にパラリンピック出場枠が与えられ、そこで初めて国内予選が行なわれるのだ。しかし今回、米田が出場する女子57キロ級の日本の世界ランキングは9位。あと一歩のところで出場枠が取れずに終わった……はずだった。

 ところが、開催国の英国が辞退したことで、日本に出場枠が与えられることになったのだ。そして5月27日、国内選考会が行なわれ、米田が同郷の後輩である土屋美奈子に一本勝ち。3度目の挑戦、29歳にして初めてのパラリンピックの切符を獲得したのだ。

「これは奇跡だと思います。開催国の英国が出場しないなんて、普通はあり得ませんよ。今回のことで『あぁ、人生頑張っていれば、いいことがあるんだなぁ』と改めて思いましたね。米田がコツコツと努力してきた結果が、こうした奇跡につながったのだと思います」
 6年間、米田を指導してきた鮫島にとっても、感慨深いものがあった。

 パラリンピックまで残り1カ月。鮫島はロンドンでの米田の戦う姿を楽しみにしている。
「とにかく命がけで5分間を戦い切ってもらいたい。しつこく、粘り強く、クタクタになっても最後まで戦う米田の姿を見たいですね。そうして、本人が納得する5分間にしてもらいたいと思っています」

 一方、米田はこれまでを振り返り、こう述べた。
「鮫島先生には技術的なことだけでなく、人生観についてもいろいろと教えていただきました。それが自分の柔道を成長させてくれたんです。鮫島先生に会わなかったら、今の自分はないと思っています」

 鮫島に会う前の米田は、ただがむしゃらに勝つことだけを追い求めてきた。だが、鮫島はそんな彼女に「勝つことが目的ではなく、勝つまでの過程が大事。その過程を大事にしなければ、試合で勝つことはできない」と諭したという。
「ロンドンでは積み重ねてきた柔道を全て出し切りたい」と米田。苦労してきた分だけ、粘り強い柔道を見せてくれるはずだ。

(斎藤寿子)

※「The Road to LONDON」はNPO法人STANDとの共同企画です。視覚障害者柔道・廣瀬誠選手を描いたアスリートストーリー「自らの可能性への挑戦」とフォトギャラリーはこちらから!

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