1995年1月、初めてジーコに取材をした時、ぼくはその場にいたものの、透明人間のような存在だった。
 ブラジルで取材を手伝ってくれたのは、セルソ・ウンゼルチという、優しい顔つきの痩せた白人ジャーナリストだった。南米最大の出版社「アブリウ」の社員で、ブラジルで唯一のサッカー専門誌『プラカール』で働いていたが、車雑誌に異動になったとぼやいていた。セルソは、プラカールを創刊号から所持している程、サッカーを愛していた。話してみると、ぼくと同じ年で誕生日も近かった。
(写真:イラクを選んだ“サッカーの神様”ジーコ)
「ぼくの夢は、コリンチャンスの過去の成績を網羅した辞典を作ることなんだ」
 コリンチャンスは、サンパウロの人気クラブである。後にセルソはアブリウを退社して、テレビ等に出演する著名なサッカージャーナリストとなった。そして、コリンチャンスの辞典『アルマナク・ド・コリンチャンス』を編纂し、夢を叶えている。

 ジーコへの取材は、3日間に渡って行うことになった。通訳を入れると時間の無駄になるので、基本はセルソがジーコに尋ねて、ポルトガル語で質疑応答。取材が終わると、その日のうちにセルソが取材内容を起こした。通訳に説明してもらいながら、翌日の質問内容を打ち合わせした。
 毎日取材は、2、3時間に及んだ。ぼくの目の前を、ポルトガル語が行き交った。ただ、当時のぼくは、セルソの問いにジーコが大笑いしたり、早口でまくし立てているのを見ているだけだった。

 取材データを元にぼくが原稿をまとめた連載は好評で、形を変えてさらに30回継続することになった。結果、ジーコを取材する関係でぼくは3度もブラジルを訪れることになった。さらに、ぼくは97年から1年間、勤めていた出版社の小学館を休職し、サンパウロを拠点に南米大陸を放浪したことで、ポルトガル語とスペイン語を覚えた。バスや船で旅する間に、両方の言葉とも、日常会話及び、新聞や雑誌記事を読むのには不自由しないまで理解できるようになった。

 往々にして外国語ができると自称する人間が取り違えがちだが、大切なのは外国語で取材することではなく、きちんとした答えを引き出すことだ。特に重要なのが“聞き方”である。日本語のインタビューでも、説明不足のまま質問をすれば、うまく答えを引き出すことができないだろう。その点において、ぼくはポルトガル語で“聞く”力がまだないことは自覚していた。中途半端な語彙で、不完全な言葉しか聞けないのならば、通訳に頼ればいい。

 ぼくには10年来の知り合いのエジソン土井がいた。彼は鹿島アントラーズで通訳を務めていた時期があり、ジーコからの信頼も厚かった。エジソンはブラジルで生まれ育ち、完璧なポルトガル語を話した。鋭く突き刺さる質問には、背景をきちんと話し、婉曲に尋ねることが出来た。ぼくはそれを聞きながら、しばしば感心したものだった。

 何より、彼はぼくのポルトガル語の能力を把握していた。ジーコは肝心なことを話す時、興奮して早口になる癖がある。往々にしてそういう時の話が面白かったりもする。
 エジソンはぼくが「会話についていけていないな」と感じた時は、話の邪魔にならないように、要点を手短に通訳してくれた。そして取材後、エジソンに手伝ってもらいながら、ジーコの息づかいが伝わるように詳細に取材内容を書き起こした。
 今年の3月もまた、エジソンと一緒にジーコへ会いに行ったのだ。

――実際にイラクに行った感想は?
ジーコ: 戦争があっても、アジアカップで優勝するような国なので、多少なりともインフラは整っていると思っていた。ところが、ぼくは楽観的過ぎた。イラクには芝のグラウンドさえなかった。これには驚いたよ。住友金属(現鹿島)と契約し、日本に来た時と同じだ。あの時の日本はアマチュアだったけれど、イラクは一応プロリーグだからね。
 さらに戸惑ったのは予定が決まらないことだ。戦争のトラウマかもしれないが、予定を隠さないといけないと怯えているように見えた。先の予定を決めることを恐れているようだった。「それでは困る」と何度も話し合ったよ。カタールを本拠地として使うようになってから、状況は良くなった。
(写真:イラクのサッカー環境は予想以上に悪かった)

――なぜ、「わざわざイラク代表監督に?」というのがぼくの感想でした。
ジーコ: ぼくだって、中国、アラブ首長国連邦、イラクの3カ国から選べと言われたら、中国を勧めるだろうね。中国のサッカー関係者は、日本を真似ようとしている。かつての日本と同じようにビッグネームを欲しているんだ。そういえば、3次予選で中国に行った時、(フィリップ・)トルシエと会ったよ。ぼくたちの泊まっているホテルまで会いに来てくれたんだ。彼はどこかのクラブの監督をやっているんだろ? 岡田(武史)も中国のクラブチームの監督になった。
 実はイラク代表監督就任後、サウジアラビア代表監督就任への打診を受けた。イラクに比べるとずっと恵まれた環境だ。しかし、ぼくは「イラク代表監督として次のステップに進むつもりだ」と断った。W杯3次予選では中国と同じ組だったし、敗退する可能性も低くなかった。ただ、一度引き受けたのだから、最後まで全うしたい。困難でも前を向いて突き進むしかない。人生とはそんなものだよ。

 ジーコは自らの影響力を自覚しているため、余程のことがなければ、他人の悪口は言わない。自分の抱えている選手についても悪く言うことはない。対戦する監督や自らの後任監督についても同様である。
 ただし――。
 ジーコがCSKAモスクワを率いていた時、「インタビューが載るのはこれです」、と発売中の『スポルティーバ』を持っていったことがある。
「彼は辞めても日本で人気があるらしいな」
 ジーコは表紙をちらりと眺めて、すぐに芽をそらした。イビチャ・オシムの顔が大写しになっていたのだ。

 ジーコは鹿島で選手、そして監督としてクラブの礎を築き、さらに日本代表監督として、アジアカップを制覇し、W杯出場に導いた。だが、2006年W杯の惨敗で、日本では指導者として低く評価されていることを知っている。一方、オシムは、アジアカップ連覇に失敗した。病気のため途中で退いたとはいえ、日本代表監督としてW杯予選も勝ち抜いていない。さらに言えば、彼が率いて、ほんの一瞬だけ輝いたジェフユナイテッド千葉は、現在J2で燻っている。

 ジーコは絶対に口には出さないが、「どちらの方が日本に貢献してきたのだ」という思いがあるのは痛い程分かる。
 日本での名誉挽回のために、彼はフェネルバフチェ(トルコ)やオリンピアコス(ギリシャ)など、欧州チャンピオンズリーグに出場できるクラブを指揮することにこだわっていた。日本人の目がいつも欧州のビッグクラブに向いていることをジーコは知っていたからだ。

 それなのに、どうしてイラクなのだ――ぼくは納得できなかった。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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