地方球場でオールスターゲームを2度開催したことがあるのは松山市の坊っちゃんスタジアムだけだ。球場名は言うまでもなく松山が舞台となった夏目漱石の小説「坊っちゃん」に由来する。ファウルグラウンドを除き、総天然芝の素晴らしい球場である。
 球場名が公募された際、私は用紙に「景浦将記念スタジアム」と書き込んだ。その名を球場名に冠することで、地元が生んだスーパースターの功績を永久に語り継げるのでは、と考えたのだが、残念ながら一顧だにされなかった。
「プロ野球は沢村(栄治)が投げ、景浦が打って始まったんじゃよ」。これが10年前に他界した千葉茂の口ぐせだった。千葉は景浦の松山商の後輩にあたる。巨人のエース沢村とタイガースの主砲・景浦の一騎打ちは“職業野球の華”だった。生真面目な沢村に対し、景浦は豪放磊落だった。それが両チームの“球風”に大きな影響を与えたとも言われている。

 松山商、立教大で景浦の1年先輩にあたる坪内道則から、生前、私はこんなエピソードを聞いた。「あれは昭和12年頃かな。毎晩のように連れ立って尼崎のダンスホールに通った。ある日、おカネがなくなった。ちょうどその頃、あの広い甲子園でホームランを打つと20円の賞金が出た。そこで景浦に頼むと本当に打ってくれた。ベーブ・ルース顔負けの予告ホームラン。その気になれば彼はいつでもホームランを打つことができた。別格でしたね」

 景浦と同じく昭和11年にタイガース入りした松木謙治郎の話は胸に迫るものがあった。「僕は昭和25年からタイガースの監督を5年やったんですが、巨人に負けた夜は決まって景浦の夢を見るんです。“今、戦争から帰ってきた。明日からすぐ試合に出る”と景浦は僕に言うんです。うれしかったなぁ…。いかに僕もチームも景浦を必要としていたか。もし景浦が生きていれば、その後はタイガースの監督となり、巨人に負けないチームをつくっていたでしょう。彼は人間的にも立派な男でしたよ」

 昭和20年5月、景浦は2度目の応召で戦死した。享年29。白木の箱に入っていたのは死亡通知書と遺骨のかわりの小さな石コロだけだった。箱の前で弟の賢一(元朝日軍)は泣き崩れた。「こんなものが人ひとり分の命なのか……」。今日は67回目の終戦記念日である。

<この原稿は12年8月15日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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