12日に閉幕したロンドン五輪、日本代表として出場した愛媛県出身の3選手は、それぞれの競技で全力を出し切った。柔道男子73キロ級の中矢力(ALSOK、松山市出身)は決勝で敗れたものの、銀メダルを獲得。陸上男子やり投げの村上幸史選手(スズキ浜松AC、上島町出身)は予選で77メートル80に終わり、初の決勝進出はならなかった。そしてボート男子軽量級ダブルスカルの武田大作(ダイキ、伊予市出身)は浦和重とのベテランペアでアテネ大会(6位)以上の成績を狙ったが決勝に進めず、12位だった。武田の証言を元に大舞台での戦いを振り返る。
(写真:松山市内のダイキ本社では大勢の社員、関係者がロンドンへ声援を送った)
「悔いは残したくなかったんですけど、実力を出し切れなかった。悔しいし、自分に腹が立ちますね」
 完全燃焼を誓った5度目の五輪。しかし、武田にとっては不完全燃焼でロンドンを離れる結果となってしまった。

 準備不足――武田は今回の敗因をそうとらえている。日本スポーツ仲裁機構への不服申立、再レースでの代表復帰を経て、五輪の出場権を獲得したのが4月末。浦とはアテネ、北京と2大会連続でペアを組んだ間柄とはいえ、五輪本番まで残された時間はわずか3カ月だった。

 時間が限られている中、さらにペアが直面した問題は指導者だ。武田、浦は日本ボート協会に対し、アテネ五輪で代表監督を務めた大林邦彦氏の指導を仰ぐことを要望。しかし、話し合いが折り合わず、コーチ就任には至らなかった。
「協会には五輪で戦う上でのよりよい体制を整えていただけると思っていただけにショックでした」
 結果、6月末からの直前のイタリア合宿では“指導者不在”で調整を行わざるを得なかった。2人はビデオ撮影した練習映像を動画投稿サイトにアップ。それを日本にいる大林氏が確認して、アドバイスをもらうという“遠距離指導”で本番に備えた。

「映像では細かい部分は伝わらない。細かいチェックができないので、大林さんにも歯がゆい思いをさせてしまったと思います」
 いくら世界を知るペアといえ、コーチの充分な指導を受けられないまま戦えるほど、五輪は甘くはない。長年の付き合いで互いに本音を言い合える間でも、あくまでも立場は対等な選手同士。問題が生じた際、「ここが良くない」と単刀直入に指摘するのは難しいものだ。武田は「2人だけだと、うまくいかない部分があってもお互いのことを考えて妥協してしまう。やはり客観的に見て、意見を言ってもらえる人が必要でした」と戦える環境が構築できなかった点を嘆いた。

 それでも時は誰しも平等に過ぎ、本番はやってくる。
「完璧ではないがスピードは出てきた。いいレースができるかもしれない」
 武田と浦は手応えも感じつつ、五輪のスタートラインにボートを進めた。7月29日、予選。当日は強い横風が吹き抜ける悪コンディションだった。レース前に2人で立てた作戦は「真っすぐボートを進めるのも難しい。慌てず、落ち着いて漕ごう」。だが、これは裏目に出た。慎重に立ち上がり過ぎたことでスタートで出遅れてしまう。出だしの遅れを取り戻せないまま、クルーは組3着に沈み、この時点での準決勝進出は逃した。

 2日後の敗者復活戦。ここで敗れれば上位進出の可能性は完全に絶たれてしまう。予選の反省を踏まえ、前半から2人は飛ばした。
「自分たちのペースで、一番いいレースができました」
 後半、他国のペアに追い上げられたものの、2着でフィニッシュ。準決勝進出を決めた。

 迎えた8月2日の準決勝。ここで3着までに入れば、上位6艇による決勝に進める。
「他との実力を比較すると、僕たちは3番手狙い。厳しいレースになることは覚悟していました」
 スタートは順調だった。最初の500メートルではトップと約2秒差の好位置。このまま上位にくらいついて、最後に勝負をかける。それが2人で描いていたレースプランだった。

 ところが――。500メートル以降、武田・浦の乗るボートは先頭からどんどん遅れをとってしまう。1000メートルではトップと約5秒差。1500メートルではさらに差が広がり、ついに映像ではトップの艇と同じ画面に収まりきらなくなるほど離された。最終的には1着のハンガリーのペアから15秒差をつけられ、組最下位に終わった。

 いったいクルーに何が起きたのか。
「一言でいえば自滅です。ペースを上げたところで2人の呼吸が乱れて船が曲がってしまった。途中、(コース上の)ブイをオールで叩いてしまうミスもあり、レースどころではない状況になってしまいました。技術的にお互い妥協して詰められていなかった部分が勝負どころで出てしまいましたね」 
 いくら百戦錬磨のペアとはいえ、練習と本番は力の入り具合も違う。そこで互いに生じたわずかなズレが命取りとなった。

 せめて入賞を、と気を取り直した8月4日の順位決定戦(7〜12位)。だが、準決勝で生じた狂いは簡単には修正がきかなかった。最初の500メートルで最下位と遅れると、やはり2人のオールが微妙に揃わず、どうしても船が曲がってしまう。「練習でもないくらい悪い出来だった」と武田が首をかしげるほどの内容で、ロンドンでの最後のレースは終わりを告げた。クルーに残ったのは組最下位、12位という成績だった。
(写真:現地からのインターネット中継映像が大画面に映し出された)

「この4年間で浦も僕も力はつけてきたけど、ダブルスカルとしての完成度はまだまだ低かった。シングルスカルの選手が2人並んでボートを漕いでいるような状態でしたね」
 悔しさをにじませながら、武田は五輪の戦いを総括した。ただ、ひとつ評価できるのは北京(13位)より順位を上げられたところ。準備が不十分でも、一定レベルに到達できたことには「やり方次第ではまだ世界に戦える」との感触もつかめた。

 このロンドンで、日本勢はバドミントン、卓球が初の表彰台に上がるなど、38個と過去最多のメダルを獲得した。メダルラッシュに沸く日本の報道に接するたびに、武田は「5度、五輪に出て1度もメダルを獲れなかった」ことを無念に感じている。
「協会も含めて、北京からの4年間は失敗だったと認めざるを得ないでしょう。実際にレースをしてみて、強豪のヨーロッパ勢とスピード面で差がついてしまったことを肌で感じました。この反省を踏まえて、協会と選手が一丸となって世界と戦える組織に変わってほしいですね」

 5度目の五輪を終え、日本ボート界の第一人者は今後、どのような道を漕ぎ進むのか。
「ボートは嫌いではないですから、競技は続けます」
 その点を質すと、武田はきっぱりと言い切った。既に9月の全日本選手権、ぎふ清流国体に出場すべく練習を再開。5年後に地元で開催される愛媛国体でも現役を続け、選手として出たい願望もある。

 ただし、国際大会に出て、4年後のリオデジャネイロ五輪を目指すかどうかはまだ白紙だ。
「確かにロンドンでは不完全燃焼でしたから、もう一度、チャレンジしたい思いがあります。でも、国際レベルに達しないのに出るのは意味がない。全日本選手権、国体を通じて、まだ自分に伸びる要素があるのかを見極めて判断します」
 4年後のリオでは42歳になる。不惑の挑戦もぜひ見てみたいが、日本ボート界全体のことを考えれば、40代の選手がトップに君臨し続ける状況はいささか寂しいものがある。

 本音は武田も同じ気持ちだ。
「僕が5回、五輪に出られたのも、日本にもっと強い選手がいなかったから。早く僕を抜いてくれる選手が現われてほしいですよ……」
 しかし、それが叶わぬ以上、自らが世界と戦い、ボート界を引っ張る責任がある。若手の台頭を願いつつ、さらなる高みを求めてオールを漕ぐ日々はしばらく続きそうだ。

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