サンフレッチェ広島がリーグ初優勝へ邁進している。J1リーグでは2ステージだった1994年に、ファーストステージを制覇。だが、チャンピオンシップで敗れ、年間王者の座は逃した。それから18年、広島はリーグタイトルには手が届いていない。なぜ、19年前の広島はファーストステージで優勝することができたのか。その軌跡を振り返る。
 無人のゴールにスルスルッと吸い込まれたチェルニーの決勝ゴールは、「歓喜」という名のジュビロ・スタジアム(現ヤマハスタジアム)に棲む勝利の女神のアシストによるものだったが、Jリーグ第一ステージにおけるサンフレッチェ広島の優勝は偶然の産物ではない。言葉を飾らずに言えば、勝つべくして勝ったということだ。「コツコツまじめにやってきたチームの優勝」という川淵三郎チェアマン(現日本サッカー協会最高顧問)の至極もっともな寸評の冒頭の部分に「10年間にわたって」付け加えれば、このチームの優勝までの軌跡がおおよそ説明できる。そう、全てはこの10年前に始まったのだ。

 サンフレッチェ広島の優勝を語る上で絶対に欠かせない人物がいる。今西和男、53歳(当時)。肩書きは取締役強化部長兼総監督。彼がサンフレッチェの前身であるマツダの監督に就任したのは、当時(94年)から10年前、1984年のことだった。マツダの前身である東洋工業は日本リーグで5度、天皇杯で3度の優勝経験を誇る名門だが、当時は低迷期にあり、チームはJSLの2部に転落していた。当然のことながら「1部復帰」が当面の目標となった。チームの現状をつぶさに分析した結果、今西は再建方針として2本の柱を打ち立てた。ひとつはスカウティング網の確立であり、そしてもうひとつは外国人コーチ、監督招聘による戦術面の整備だった。地方のチーム、しかも限られた強化費というハンデを抱える中、今西が自らに課した責務は「とにかく熱心に足を運び、選手を見極める」ということだった。

 具体例をいくつか示そう。中盤の底を担当し、精力的な動きでチームのダイナモ的な役割を果たした森保一(現広島監督)には、採用するまでに5度のテストを試みた。高校時代、大した実績もなく、しかも針金のような細い体の森保を見て「あれで使い物になるのか?」と危惧する向きもいたが、今西は「サッカーに対してひたむきで、人間的にも素直。いずれ伸びてくる」と力説してマツダの関連会社に就職させた。その年の採用枠は5人だったが、森保は6番目の、いわば“補欠合格”だった。

 同じく日本代表のゴールキーパー前川和也を入団させる際には、長崎県平戸市にある実家に日参した。前川は平戸高という無名チームの無名選手だったが、188センチの長身に似合わぬ機敏な動きに将来性を感じた。しかし、交渉は簡単には進まなかった。「プロサッカー? そんなもの平戸じゃ聞いたこともない」と取りつく島もない父親に「いえ、息子さんは日本一のキーパーになる逸材です」と熱弁を振るって食い下がり、やっとの思いで口説き落としたのだった。

「名前のある選手よりも無名でも将来性のある選手を」をスカウティング活動のモットーに掲げ、今西は西日本を中心に全国をくまなく歩き回った。それは「再建への巡礼」といった趣に染められていった。

 無名の選手を発掘し、育て、鍛える。今西はそれを辛抱強くやり続けた。しかし、まだチームに何かが足りない。それこそは技術的にも精神的にも軸となり得るチームリーダーの存在だった。
 今西は清水商―筑波大というサッカーのエリートコースを歩み、ドイツのプロリーグ(レバークーゼン―レムシャイト―ブラウンシュバイク)で活躍していた風間八宏(現川崎F監督)に白羽の矢を立てた。
 今西の目に狂いはなかった。韓国遠征でのことだ。キーパーの前川が何気ないシュートをトンネルしてしまった。その瞬間である。「なんだテメエ、そんなボールも取れないのか!」。顔面を紅潮させて大声を張り上げたのが、誰あろう帰国して間のない風間だった。
「いくら選手を育て、全体のレベルを引き上げても、リーダーが不在では勝てるチームにはならない。これは何の組織に置きかえても同じことが言えるはずです」

 選手のみならず指導者の獲得にも今西は労力を惜しまなかった。84年、監督就任と同時にコーチに招聘したのが、奇しくも優勝を決めたゲーム、ジュビロ磐田の指揮をとっていたハンス・オフト(元日本代表監督)だった。指導者をヨーロッパから求めた理由は「サッカーでめしを食っているプロであり、しかも組織、戦術を教えることができる」というものであった。
 オフトはコーチを引き受けるにあたって、ひとつの条件を提示した。それは「お互いの責任と権限を明確にしよう」というものであった。「グラウンドの外のことは任せるが、グラウンドの中のことには一切口出ししないで欲しい」とオフトは要求した。
 その申し出を今西は快諾した。もとより、それは望むところであった。自らは選手を獲得し、教育し、サッカーに打ち込める環境を整える。そうした職分、いわゆるゼネラル・マネジャーに徹することがチーム強化の近道だと考えていたからだ。

 こうして職能をきちんと分けた上での外国人指導者との二人三脚がスタートした。オフトのバトンはビル・フォルケス、スチュワート・バクスターへと引き継がれ、10年の歳月を経て、チームは洗練の極みに達した。「土台を築いたのがオフト、実践面の指導をしたのがフォルケス、そして、日本人に合ったサッカーを創出したのがバクスター。ひとりの指導者の力によってここまできたのではない」と今西はサンフレッチェのサッカーが付け焼刃ではないことを強調する。10年の下積みが「組織サッカー」が花開く確かな土壌を育んだのである。

「Jリーグを戦うにあたって、なぜバクスターを監督に選んだのですか?」
 という私の質問に、今西はかつてこう答えた。「ウチがスウェーデン遠征に行った際、ハルムスタッドというチームの監督をしていた彼は前半と後半でガラリと戦い方をかえてきた。その頭の良さと判断の的確さにほれたんです」
 今西のいうバクスターの「頭の良さと判断の的確さ」は、94年の第一ステージ終盤、いかんなく発揮された。17節のヴェルディ戦、それまで11連敗中だった大の苦手に比較的、自由にボールを持たせる作戦に出た。そのことについて質問を受けたバクスターは「今まではプレスを意識し過ぎて、一瞬のスキをついてやられていた。だから今日は決定的な場所以外ではボールを持たせることにしたんだ」と会心の笑みを浮かべて答えた。

 天王山の第19節、エスパルス戦では2つの好采配があった。まずひとつは、前回の対戦で2点を奪われたトニーニョに上村という専用のマーカーをつけ、ほぼ完璧に封じ込んだ。そして、もうひとつは盧廷潤の代役だった。(アメリカ)ワールドカップ出場のためナショナルチームと合流する盧の代役として、候補の一番手にあげられていたのが鋭い得点感覚をもつ島卓視だった。
 ところがフタを開けると、盧のかわりに入ったのは戦術した上村であり、右サイドにはポッカリと大きなスペースができた。つまり盧の代役は「人」ではなく「スペース」
だったのだ。ハシェックがアシストし、高木が叩き込んだ決勝点は、まさにこの「スペース」を有機的にいかしたものだった。そこにヘッドで絶妙なボールを落としたハシェックの戦術眼が際立った。主演高木、助演ハシェック、演出バクスターによる計算しつくされた「清水撃退劇」の一幕だった。

 サンフレッチェはこのステージ、連敗が一度もないばかりか、同じチームに2度やられていない。これはとりもなおさず、バクスターの「頭の良さと判断の的確さ」を裏付けるものであり、指揮官としての資質の高さを感じさせる。
 今西がグランド・デザインを描き、バクスターが指揮をとったコンパクトで機能的なサッカーは、明らかに残り11チームとは一線を画した。試合によって多少のバラツキはあったが、攻撃は常にワンタッチ、ツータッチでの速いパス回しから組み立てられ、フォロー、サポートの任務はシーズンを通して忠実に遂行された。ロングボールを放り込み、競り勝って運よくルーズボールを拾えればゴールが狙えるといった“運任せ”の不確実なサッカーが横行していた中、サンフレッチェの試合運びは、実に合理的でスペクタクルに映った。Jリーグで唯一「世界」とつながっていたチームといっても過言ではあるまい。

<この原稿は1994年発売の『週刊文春』に掲載された記事を再構成したものです>
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