江川卓が法大時代の話。野球選手としての価値を聞かれた御大こと明大・島岡吉郎監督が「投げて1億、打って1億」と語ったのは、あまりにも有名だ。六大学リーグ史上2位の47勝をあげた江川は、打者としても3割1分という高打率を残している。
 当時、ドラフト制導入後、契約金の史上最高額と言われたのが阪急・山口高志の5000万円。社会人球界の大エースだ。いかに江川の実力が突出していたかを物語るエピソードである。

 時代を遡っても、過去の名投手はバットを持たせても、皆一流だった。あまり知られていないが、沢村栄治の最後の出場は代打だった。1943年10月24日、洲崎球場での阪神戦。2対2の同点で迎えた11回表、1死一、二塁の場面で巨人の監督・中島治康は沢村を打席に送った。

 ここまで読めば、ピッチャーが代打に立つくらいだから余程、しょぼいバッターだったと思うかもしれない。ところが代えられた選手は強打で鳴る青田昇だ。この年、まがりなりにも青田は打点王に輝いている。絶好のチャンスで打点王に代わってピッチャーが打席に立つ――。今ではありえない話だ。つまり、それくらい中島は沢村のバッティングを買っていたのである。

 江夏豊の打棒も忘れられない。延長戦でのノーヒッターは後にも先にも73年8月30日、中日相手に阪神の江夏が記録した1度だけだ。中日打線を完璧に封じたのみならず、試合にケリをつけたのも江夏だった。11回裏、甲子園球場の右翼ラッキーゾーンにサヨナラホームランを叩き込んだのだ。

 しかもホームランを奪った相手は左のエース松本幸行。左対左。球数など状況を踏まえれば、今の野球なら当然、代打だろう。時代背景が違うとはいえ、そうさせなかったのは、江夏の腰の据わったバッティングに対する潜在的な期待があったからに他ならない。

 さて北海道日本ハムへの入団が決まった大谷翔平だ。投げればMAX160キロ、打てば高校通算56本塁打。余りある才能の持ち主であることは言を俟たないが、DH制を採用しているパ・リーグでは原則的にピッチャーが打席に立つことはない。“二刀流”と言えば聞こえはいいが、「二兎追うものは、一兎をも得ず」という格言もある。天は時として二物を与えるが、選択し決断するのは本人である。

<この原稿は12年12月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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