いまはどうだかわからない。だが、10数年前、その大学のサッカー部ではグラウンドを整備するのは1年生の仕事だった。米国からの帰国子女として入学した青年には、それが理解できなかった。なぜそんなことをしなければならないのか。サッカーの上達とはまるで無関係ではないか――。
 ゆえに、彼はやらなかった。やらなかったことで、同級生から総スカンを食らった。彼を除くすべての1年生は、自分たちがグラウンドを整備しなければならないのを当然のこととして受け止めていた――先週、知人から聞いた話である。

 振り返ってみれば、わたしが通っていた高校でも、グラウンド整備は1年生の仕事だった。体重をかけてレーキで土を掘り起こし、最後はトンボで均(なら)す。楽な作業ではないが、グラウンドの状態が悪ければ先輩からのシゴキが待っている。これが自分たちの仕事だと一生懸命やる人間がいる一方で、サッカーには関係ないからと手を抜く人間もいる。わたしは、どちらかというと後者に怒りを募らせていた側の人間だった。もし帰国子女の青年と同じ大学に進んでいたら……自分が取ったであろう態度は容易に想像がつく。

 なぜ体罰はなくならないのか。「もっと厳しく指導してくれ」と教師に詰め寄る親がいるのはなぜなのか。それは、日本においてはスポーツをやる人間、やらせる人間が、「理不尽に対する耐性」を重要視しているからである。

 社会に出れば思い通りにならないことはたくさんある。そのための予行演習をスポーツでやっておく。やらせておく。なぜ1年生はグラウンド整備をしなければならないのか。大切なのはその理由を考えることではなく、ただ従うこと。そういう人間であれば、上司からの理不尽な要求にも耐えることができる。一時期、日本のサラリーマンが“エコノミック・アニマル”とまで称されたのは、スポーツという名の修業によって、理不尽に対する強固な耐性を獲得していたからなのかもしれない。

 体罰問題は、だから体罰をした人間を非難するだけでは何も変わらない。この問題の根っこは、日本の問題点であると同時にストロング・ポイントでもある。欧米人には楽しみでしかないスポーツというものの中から、日本人は精神的な意味を汲(く)み出し、試練の場ともした。

 あなたの中に、グラウンド整備をやらない人間に対する怒り、反発、侮蔑はないか。わたしの中にはあったし、おそらくはいまもある。スポーツに、スポーツ以上の意味と効能を求めている時点で、日本のスポーツは体罰の芽を内包しているのである。

<この原稿は13年2月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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