日本円にして1杯60円ぐらいの安いグラスワインを飲みながら、2人でため息をついたことを思い出す。96年4月のことである。
「これでもしクビになっちゃったら、俺たちなんのためにバルセロナまで来たんだろうね」

「ほんとっすよね…」

 高校サッカー界のスーパースターだった羽中田昌さんが山梨県庁を辞めたのも、わたしがサッカー専門誌を辞めたのも、バルセロナでクライフのサッカーを生でみたいがため、だった。だが、日本を離れてまだ1年も経(た)っていないのに、クライフの更迭を求める意見は多数派になりつつあった。その日、わたしたちがカンプノウで目撃したのは、あらゆるところで振られる白いハンカチ――「クライフは出て行け」というメッセージだったのだ。

 直接的な引き金となったのは、リーガ優勝争いの大一番、ホームでのAマドリード戦での敗北だった。だが、発射される弾が込められたのは、その1週間前に行われたUEFAカップ準決勝第2戦に於(お)けるホームでの敗戦だった。

 その相手が、バイエルンだった。

 当時、バイエルンの会長はベッケンバウアーだった。いうまでもなく、74年W杯決勝でクライフ率いるオランダを打ち破った男である。その敗北による打撃があまりにも大きかったがために、以後、クライフは二度とW杯の舞台に立つことはなかった。つまり、人生に於ける最大の屈辱を味わわされた相手に、クライフは、またしても煮え湯を呑(の)まされたのである。

 以後、彼は二度と監督の職についていない。

 だから、驚いた。本当に驚いた。グアルディオラのバイエルン監督就任の一報に、である。

 彼がカネよりも挑戦を選ぶであろうことは予想できていた。クライフから離れ、新しい道を行くだろうとも思っていた。

 だが、まさか師にとって最大の宿敵、因縁の象徴ともいえるチームを選ぶとは……。更迭の弾込め、引き金、どちらの試合にも選手として出場していたのだから、なおさらである。

 ドイツは、実はクライフが具現化したトータルフットボールの影響をできる限り拒絶しようとした国である。世界中で広まったオフサイドトラップも、この国ではなかなか取り入れられなかった。隣国の影響に浸るには、彼らのプライドはいささか高すぎた。

 だが、そんな国の象徴ともいうべきチームが、クライフ門下生にチームを任せた。グアルディオラの決断も、バイエルンの選択も、これは、歴史的な事件である。

<この原稿は13年1月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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