早く一人前のフィジカルコーチになりたい――里内はそればかり考えていた。トレーニングの勉強会があれば足を運び、参考になりそうな本やビデオテープを片っ端から手に入れた。ある時、ヨーロッパにいいビデオがあると聞き、取り寄せてみると日本のビデオデッキでは再生できないPALシステムだった。どうしても見たいので、PALシステムを再生できるマルチシステムのビデオデッキを購入した。ビデオデッキは約30万円――会社員の里内にとっては、痛い出費だった。それでも知識欲の方が勝った。
(写真:CRフラメンゴのスタジアム。老朽化は進んでいるものの、環境は整っていた)
 だが、何よりの教材は同じチームにいるジーコだった。ジーコは来日してすぐの頃、「どうして日本はこんなに休みが多いんだ」とぼやいた。ブラジルでは、州リーグ、全国リーグ、全国カップ戦に加えてリベルタドーレス杯などの国際試合もある。一方、住友金属の所属する日本サッカーリーグ(JSL)は、基本的には仕事の合間にサッカーをする実業団リーグであり、当然試合数は限られていた。

 ジーコは89年に一度現役を引退し、90年から1年4ヶ月の間、ブラジルのスポーツ庁長官を務めていた。趣味としてのサッカーは続けていたものの、トップリーグでプレーするにはトレーニングが必要だった。

「今日時間はあるか?」
 ある日、里内はジーコからこう声を掛けられて一緒にグラウンドを走り、腹筋運動を手伝った。ウエイトトレーニングもやりたいというので工場の敷地内にある社員用のジムに連れて行った。するとジーコは「ここでは駄目だ」と首を横に振った。ジムにあったのは、油圧式のトレーニングマシンだった。「このマシンだと筋力を傷つける可能性がある。もっと細かく負荷を変えられるマシンでないと使えない」という。

「里内、チューブならあるだろ? 自転車に使うようなやつだよ」
 色々と探してみると、ドイツ製のチューブを手に入れることができた。ジーコとの会話は最初は身振り手振りを交えてのものだった。そのうちに里内はポルトガル語の辞書を買い、言葉を少しずつ覚えていった。

 育ってきた環境、バックグラウンドが違えど、人の心は伝わるものだ。ある日、「これを読んでみろ」と小冊子を渡された。ブラジルサッカー協会が使用しているトレーニング本だった。里内は辞書を引きながら読み進めていった。そのおかげもあり、里内は次第にジーコの話すポルトガル語が理解できるようになっていった。

 そもそも、なぜ一度引退したジーコが、住友金属の誘いを受け容れたのか。それはサッカー選手としてではなく、プロチームを作る手助けをして欲しいと頼まれたからである。ゆえに、ジーコは関係者に気になることを次々と指摘した。

 なかでもゴールネットの話は有名だ。住友金属の練習グラウンドのゴールネットは青色をしていた。ジーコはそれを見ると、すぐに「白いネットに変えてくれ」と言った。白色の方が見やすいので、攻撃の選手にはやりやすいのだという。ところが、会社側は「予算がもうない」と断った。ジーコは会社からしばしば食事の接待を受けていた。「どうして食事をする金があって、ネットが変えないのだ」とジーコはえらく腹を立てた。
(写真:ブラジルのあるグラウンド。もちろん、ゴールネットは白だ)

 合宿先でジーコが当時監督の鈴木満を呼びつけたことがあった。里内が聞き耳を立てると宿舎のことだった。合宿地には選手全員が宿泊できるホテルがなかった。鈴木たちは気を遣って、2つあるホテルのうち、ジーコにはやや値段の高い方のホテルを準備していた。すると、ジーコは「チームは一緒に行動しなきゃ駄目だ。どうしてバラバラにするんだ」と真っ赤な顔をして怒っていた。

 ジーコはブラジル代表、あるいはCRフラメンゴの選手として世界各国を旅していた。最も長く滞在したのはウディネーゼ時代のイタリアだった。イタリアはブラジルと同じラテン系、キリスト教文化圏だ。国民にとってサッカーが何よりも最優先という文化がイタリアにも根付いていた。しかし、日本は全く違っていた。

 神経質なジーコは、不満を感じるとすぐに顔を曇らせることが多かった。だが、里内はそんなジーコにあまり頓着しなかった。
 ある時、ジーコが風邪を引いて寝込んだことがあった。ジーコはまだ家族を日本に呼び寄せておらず、鹿島神宮に近い住友金属の管理職用アパートに住んでいた。心配した里内が彼をを見舞った。ところが、扉を叩いても返事がない。しばらくしてげっそりと青い顔をしたジーコが顔を出した。

「Todo bem(大丈夫)?」と尋ねると「ああ、大丈夫だ」とジーコは返した。元々ジーコは体調不良になると下痢になる体質だった。それを知っていた里内は、負けず嫌いのジーコのことだからやせ我慢を言っているのだろうと苦笑いした。

「これでも食べてください」
 里内はフルーツの盛り合わせを差し出した。すると、ジーコはフルーツを見て「下痢の時にこんなものを食べられるか」と弱々しくも顔をしかめた。ブラジルでは見舞いに果物の盛り合わせを手土産とする風習はない。何より、ジーコは果物があまり好きではなかった。しかし、わざわざ見舞いに来てくれた里内に感謝はしていた。人見知りで神経質なジーコも里内には徐々に心を開き、冗談を飛ばすようにもなっていった。

 ジーコが笑いながらこう話しかけてきたことがある。
「Você é falso, ne!」
「Falso」とは、「偽物」という意味でよく使われる。「偽善者」という意味もある。「お前は偽善者だ」とジーコは里内をからかったのだ。
――誰が偽善者やねん。
 里内は心の中で突っ込みを入れていた。

 ジーコは一度親しくなると非常に面倒見がいい。Jリーグ開幕前の93年2月、ジーコは里内を勉強させようと、ある知人のところに送り込んだ。それはジーコが師と仰ぐ男だった。元ブラジル代表監督のテレ・サンターナである。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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