明るいムードメーカーで“太陽の男”と呼ばれる森脇だが、決して最初から日の当たる場所にいたわけではなかった。
「正直、サッカーはヘタクソでしたよ」
 本人もそう少年時代を振り返る。
 野球一筋の父からサッカーを学ぶ

 サッカーとの出会いは小学校2年生の時だ。兄の佑太と自宅近くでボールを蹴って遊んでいると、近所の年上の友達から、「一緒のチームに入ってサッカーをやってみないか」と誘われた。
「体験でもいいから、1度やってみたい」
 スポーツ少年団のチームで練習に参加させてもらい、皆でひとつの丸いボールを追いかけ、蹴り合った。ひとつの四角いゴールを皆で奪いに行き、皆で守る。練習体験が終わる頃にはすっかりサッカーのとりこになっていた。

「こんなに楽しいスポーツがあったのか」
 家に帰るなり、両親に「サッカーをやりたい」と告げた。
「そうか。でも、やるんだったら上を目指してとことんやるんだぞ」
 父は森脇の決断を強く後押ししてくれた。実は父は社会人でも野球をしていたほどの選手だった。それまでも時折、親子でキャッチボールを楽しんでいた。

 森脇曰く「それまではサッカーのサの字も知らなかったはず」という父は、2人の息子がサッカーを始めるとなると一変する。教本を買い込み、ルールや基本的なテクニックを徹底的に勉強して教えてくれた。親子3人でボールを蹴る姿は近所でも有名になった。

 父は息子のためだと思えば、大好きなタバコもやめた。
「ある日、保健体育の授業で“タバコを吸い過ぎると肺が真っ黒になって病気になる”と習ったんで、“これはマズイ”と。家に帰ってすぐに“お父さん、病気になって死んだら困るから、タバコはやめようよ”と話をしました」

 息子の説得に父は静かに答えた。
「わかった。じゃあ、この1箱でやめるよ」
 約束通り、最後の1箱を吸い終わると、以降、1本のタバコも口にしなくなった。そんな父を森脇は心から尊敬した。

「僕にとっての原点は父。父の情熱があったからこそ、ここまでサッカーを続けられたのだと思います」と森脇は振り返る。やるからには上を目指す、やるからには妥協はしない――。今にもつながるサッカーに対する姿勢は、この時期にかたちづくられた。

 転機となったDFへのコンバート

 父の熱心な指導もあり、着実にレベルアップした森脇は中学校から隣の尾道市にあるサンフレッチェびんごジュニアユースに入る。当時のポジションはFW。相手のディフェンスをかいくぐってゴールを決める快感はたまらなかった。

 そんな必死でゴールを目指す少年を見つめていた、ひとりの指導者がいた。サンフレッチェ広島でユースの指導にあたっていた森山佳郎(現広島強化部コーチ兼U-15日本代表アシスタントコーチ)である。
「キープ力、技術はしっかりしているが、突破力がない。前線の選手としては少し厳しいかなと感じました。ユースで獲得するにあたっての優先順位はそう高くなかったんです。プロでバンバン活躍するとは当時は想像できませんでしたよ」
 森山は率直に森脇の第一印象を明かす。

 と同時に、別のポジションであれば持ち味が生きるかもしれないとひらめいた。それがDFだった。
「上背もそこそこあってガッチリしていたので、後ろからしっかりつなぐことはできる。主役ではなくても脇役にならなれるのかなと感じました」
 ユースで採用するにあたり、森山は「ディフェンスをやってみないか」と話をした。当然、本人は複雑な心境だった。

「なんでだよ、とめちゃめちゃ思いましたね(笑)。ジュニアユースでも点取り屋としてやってきたし、ゴールを決めることにやりがいを感じてきました。FWでプロになりたい。それだけを考えてサッカーをしてきたんですから」

 葛藤を抱えながら森山に言われるまま、新しいポジションの練習を始めた。気持ちのモヤモヤをぶつけるように、相手のパスを全力でカットしに行った。その時だ。目の前の霧が一瞬にして晴れたような気がした。
「インターセプトの瞬間、これは楽しいポジションだなと感じたんです。相手の攻撃の芽を摘み、こちらのチャンスをつくれる」
 最初はセンターバック、そして2年目からはサイドバックとして森脇は相手のボールを奪うスキルを磨くべく貪欲にトレーニングに励んだ。

 良性のネガティブ思考

 しかし、なかなか試合には出られなかった。なぜなら当時のユースには“金の卵”がゴロゴロ転がっていたからである。同期にはFW前田俊介(現コンサドーレ札幌)、MF高萩洋次郎(現広島)、MF高柳一誠、DF藤井大輔(現V・ファーレン長崎)らがいた。ひとつ下にはDF槙野智章、MF柏木陽介(ともに現浦和)がいた。チームメイトは年代別の代表に次々に選ばれていく。あまりのレベルの高さに「なんちゅうチームに入ったんだ」と森脇はショックを受けた。

 それでも上を目指す気持ちだけは捨てなかった。
「同年代には負けたくない。自分もいつか活躍して代表に選ばれるような選手になるんだ。その思いでいっぱいでしたね」
 泥臭くサッカーに打ち込む森脇を森山は時に厳しく、時に優しく励まし続けた。
「彼は良性のネガティブ思考なんです。こちらが怒ったり、ミスをすると、すごく落ち込む。ただ、彼の良さはそこで踏みとどまって、“負けてたまるか”というエネルギーに切り替えられるところ。ヘコんだところから頑張って、またワンランク成長できる。ほら、ジャンプする時って一度、沈み込むでしょう? そんな感じで、時々沈み込むことはあっても、それをバネに高くジャンプしていった印象ですね。だからアメとムチを使い分けながら接していました」

 森山は森脇に若き自らの姿を重ね合わせていた。自身も決して才能に恵まれた選手ではなかったからだ。筑波大時代はFW中山雅史、DF井原正巳(現柏レイソルヘッドコーチ)らの陰で目立たず、試合に出られるようになったのは4年生になってから。広島の前身であるマツダに入っても最初はレギュラーになれなかった。

「僕も“もうダメだ”と落ち込むことが何度もありました。でも、そこをなんとか諦めずにやってきた。その意味では森脇とよく似ているんです」
 森山の努力は実を結び、94年には広島の右サイドバックとしてステージ優勝に貢献。日本代表にも選出された。そんな自身の体験から「オレだって大学では4年になるまで試合に出られなかったのに26歳で代表にもなれた。同期の人間を逆転したんだ。人間、地道にやっていれば、どこかで逆転できるからな」と、まだ高校生だった森脇のモチベーションをうまく盛り上げていった。

 そして、森脇にも地道な取り組みが芽吹く時がやってきた。高校2年の時、トップのサテライトチームにサイドバックが足りず、助っ人として借り出されたのだ。ここでのプレーぶりが評価を受け、その後もたびたびサテライトチームに参加するようになる。より高いレベルでもまれたことで、17歳の若者はみるみる力をつけていった。

「これならユースでも試合に出せるなぁと思ってみていたら、あっという間にレギュラーになりましたね」
 森山も驚く急成長でスタメンに名を連ねるようになった森脇は、“金の卵”軍団の一員として輝かしい実績を残す。2年時に日本クラブユース選手権とJユースカップで優勝。3年時には日本クラブユース選手権を連覇し、高円宮杯全日本ユース選手権を制した。

 しかし、史上初のユース3冠を狙って挑んだJユースカップでは決勝で鹿島アンドラーズユースにPK戦の末、敗れた。4人目のキッカーだった森脇のキックが相手GKに止められての敗戦。やはり、この男には、まだスポットライトは当たらなかった。

 大きすぎた駒野の存在

 高校卒業後の2005年、森脇はトップチームとプロ契約を果たす。サッカーを始めた時から抱いてきたプロ選手となる夢を叶えた。だが、夢の世界は絶望の谷へと一変する。トップチームには大きな、いや大きすぎる壁があったのだ。

 それが不動のレギュラー、駒野友一(磐田)だった。前年にはアテネ五輪の代表にも選ばれ、A代表からも声がかかっていた5つ年上の先輩を脅かすことは容易ではなかった。
「駒野さんにはすべてがかないませんでしたね……」
 なんとか練習でもアピールしてチャンスをつかもうと気ばかりが焦り、ミスを繰り返す悪循環。同年代のユースならむくむくと頭をもたげてきた負けん気も、年齢もレベルも違うトップチームの中ではさすがに沸き起こらなかった。圧倒的な力の差に、言葉すら失った。

 明るさが取柄の若者が、練習中もふさぎこむ日々。
「練習に行きたくないと思う日が何度もありましたよ」
 このままプロとしてやっていけるのか、森脇は真っ暗闇の中に放り込まれた気分だった。プロ1年目の公式戦出場はヤマザキナビスコカップのわずか1試合にとどまった。

 その年のオフ、森脇はクラブのフロントから呼び出しを受ける。
「愛媛に行って修行してこい」
 それは愛媛FCへの期限付き移籍の打診だった。J昇格を決めたばかりの愛媛は資金力に乏しく、各クラブの若手を期限付き移籍で獲得し、戦力を補強していた。

 たった1年での移籍……寝耳に水の提案を、19歳の森脇はすぐに受け入れられなかった。
「その瞬間は、クビ宣告だと思いました。サッカー選手として、これからやっていけないんじゃないかと……」
 強化担当者から「愛媛で頑張ることが、良太のためにも、クラブのためにもなるんだから」といくら話をされても、その時点では素直に聞けなかった。

 とはいえ、このまま広島に残ったところで試合に出られる保障はまったくない。悩んだあげく、森脇は愛媛に行く決心を固める。
「子供っぽい考えだったかもしれませんが、“愛媛に出して間違いだった”と見返すような活躍をしようと思いました。必ず大きく成長して、ここに戻ってくるという気持ちでしたね」

 プロとして日の当たる場所で輝くことができるのか、それとも日の当たらないまま消えてゆくのか。強い決意と少しの不安をバッグに詰め込んで、森脇は瀬戸内海を渡り、四国の地に降り立った。 

(第3回につづく)
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<森脇良太(もりわき・りょうた)プロフィール>
1986年4月6日、広島県出身。ポジションはDF。小学2年でサッカーを始め、サンフレッチェびんごジュニアユースを経て広島ユースへ。サイドバックに転向し、クラブユース選手権の連覇などに貢献。高校3年時の04年にはトップチームに2種登録され、ナビスコ杯でデビューを飾る。05年に正式にトップチームとプロ契約。出場機会を増やすため、06年からJ2に昇格したばかりの愛媛へ期限付き移籍。レギュラーとして経験を積む。08年に広島復帰後はチームの主力に定着。守備はもちろん、積極的な攻撃参加でチームに勢いを与える存在に成長する。10年1月には日本代表に初招集。アジアカップで出番はなかったものの、優勝を経験する。12年は33試合に出場して4得点をあげ、クラブは悲願の初優勝を収めた。今季より浦和へ完全移籍。J1通算120試合8得点、J2通算100試合9得点、日本代表2試合0得点。身長177cm、75kg。背番号46。



(石田洋之)
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