2006年、森脇はサンフレッチェ広島から2人のチームメイトとともにJ2の愛媛FCへ期限付き移籍した。一緒に四国にやってきたのは、MF高萩洋次郎、FW田村祐基。注目を集めたのは各年代で代表にも選出されていた高萩だ。広島でも司令塔として将来を嘱望されていた逸材だった。
「高萩が愛媛に来ると聞いて、そんないい選手が来るんやと思いました。でも……森脇のことは正直、よく知りませんでしたね」
 当時の愛媛のある選手は率直な感想をそう漏らす。
 運命を変えたダービーでのゴール

 しかし、チームに合流し、キャンプがスタートすると、森脇は持ち前の明るさでチーム内で目立ち始める。センターバックとして守備を統率していた金守智哉は同じマンションに暮らしていたこともあり、公私ともに森脇の面倒をよくみていた。
「うるさいくらい元気なヤツでしたよ。最初は動きもぎこちなかったですが、基本はしっかりしている。確かにJ1のクラブから来ただけあって、レベルは高いなと感じました」
 
 トレーニングを重ねる中で、チームメイトのみならず、監督の望月一仁も広島から来た若武者の実力を認めるようになっていた。
「攻撃の起点になって仕掛けられるところが彼の持ち味でした。ボールを持ったら中に持ち出してビルドアップしてくれる。今はそういうサイドバックが増えましたが、まだ、その頃のJ2レベルでは決して多いタイプではなかった。これは貴重な存在になるなと感じました」
 望月は右サイドバックで森脇を開幕戦からスタメンで起用した。

 試合に出られる喜び――オレンジのユニホームを着た森脇は、それを体中で感じながらプレーした。
「広島や浦和と比べたら、お客さんは少なかったかもしれません。でも、いいプレーをすれば、サポーターが自分のことのように喜んでくれる。どんなにつらいことや苦しいことがあっても、お客さんの前でプレーできるうれしさを思えば乗り越えられましたね」

 そんな愛媛サポーターの心を一瞬でわしづかみにした一戦がある。06年4月1日、対徳島ヴォルティス。J2の舞台では初めてとなる四国ダービーである。愛媛はJFL時代、徳島の前身である大塚製薬に対し、0勝2分5敗と1度も勝利したことがなかった。

 しかし、試合は立ち上がりから森脇が思い切ってグラウンダーのミドルシュートを放つなど、愛媛が積極的に攻める。森脇は、期限付き移籍で柏レイソルから加入したMF菅沼実(現磐田)とのコンビで何度も右サイドを突破し、徳島ゴールを脅かした。

 そして、愛媛が押し気味に試合を進めた後半40分、決定的なシーンが訪れる。途中出場のFW田村が高い位置でボールを奪うと、森脇がすかさず右サイドを駆け上がる。パスを受けると、ドリブルで中へ切り込んで、相手のDFをひとりかわす。そして、ペナルティアーク付近からすかさず左足を振り抜いた。

 ボールはセーブしようと倒れ込んだ相手GKの指先を抜けて、ゴール左隅へ。値千金のゴール。雄叫びをあげながらベンチに全力で走った森脇をチームメイトがもみくちゃにする。愛媛サポーターがたくさん詰めかけたスタジアムは興奮のるつぼと化した。

 結局、この1点が決勝点となり、1−0。愛媛は四国ダービーを初めて制し、歴史的な1勝をあげた。
「若い選手は大事な時に力を出せないことが多いものです。でも森脇の場合は初のダービーでゴールを決めた。これはまぐれではできないこと。実はものすごい力を秘めている男なんだなと実感しましたね」
 この年、キャプテンを務めていたGK羽田敬介は決定的な仕事をした19歳に可能性を感じ始めていた。

 それは指揮官の望月も同じ思いだった。
「彼の持ち味が一番出たゴールでしたね。開幕から1カ月、彼を使ってきましたが、守りの面でミスも少なくなかった。前に出るのはいいけど、後ろをとられて痛い目にもあっていましたから。そろそろ他の選手にもチャンスを与えようかなと考えていた頃なんです。でも、あのゴールを見て、心に決めました。“良太を使い続けよう”と」

 そして一呼吸置くと、望月はしみじみと言った。
「あのゴールが良太の人生を変えたのかもしれませんね」

 「将来、日本代表になれる」

 愛媛でレギュラーの座をつかんだ森脇だが、ひとつだけ望月が頭を悩ませていたことがあった。それは警告の多さである。熱い気持ちが空回りして、ラフプレーや審判に対する異議でイエローカードをたびたびもらった。累積警告などで出場停止になること1シーズンに4度。ゴール裏のサポーターが森脇を応援する横断幕にイエローカードの枚数をカウントして貼りつけたほどだった。

 シーズン3回目の出場停止となり、ペナルティで2試合ピッチに立てなかった森脇に対し、指揮官はお灸をすえる。出場停止明けの試合、あえて森脇をスタメンから外したのだ。
「ちょうど代役で起用した関根(永悟)が頑張って、前の試合でゴールも決めていたんです。出場停止で試合に出られないようなことが続くと、他の選手にチャンスを奪われてしまう。そのことを分かってほしかったんです」
 望月はベンチを温めることになった森脇を呼び、こう諭した。
「良太、もったいないぞ。J1に戻った時、こんなに試合に出られなかったら、自分で自分の首を絞めることになる」

 心は熱く、しかし、頭はクールに。「広島に戻って、年々、無駄なイエローカードをもらう枚数が減ってきたのも、あのモチさんの言葉のおかげですね」と森脇は感謝する。実は、その直後、スタメンに戻った試合で、いきなり2枚のイエローカードをもらって退場。望月は再び頭を抱えたが、森脇は徐々に気持ちをコントロールしていく術も覚えていった。

 森脇や高萩、菅沼ら、若い選手に牽引された愛媛は、次第にチームの歯車がかみ合い、終盤に快進撃を続ける。最終第4クールは5勝4敗3分の好成績で順位を13クラブ中9位に上げ、初年度のシーズンを終えた。守りの要だった金守は当時のチームを「ワクワク感があった」と評する。
「森脇には“ガンガン行け”と行っていました。少々、裏を取られても、こちらがカバーすればいい。そのあたりの役割がはっきりしたことで、チームとしての戦い方が確立されましたね」

 ひたむきにピッチを駆け巡る森脇は、いつしか愛媛の人気者になっていた。時にはポカもあるが、そのプレーは観る者に強く訴えかけるものがあった。金守は試合を観戦に訪れた父親の一言が強く心に残っている。
「父はサッカー経験者ではないのですが、森脇のプレーを見て、なぜか“将来、日本代表になれる”と言ったんです。戦う姿勢とか懸命な部分にひかれたんでしょうね。その時は“そんな、まさか”と思いますけど、結果的には父の目は正しかった」
 試合を重ねるごとに成長した森脇は、チームに欠かせない選手になっていた。

 迎えたシーズンオフ、森脇はもう1年、移籍期間を延長して愛媛に残るか、広島に戻るかの選択を迫られる。ともにやってきた高萩と田村は広島復帰の道を選んだ。だが、森脇は2人とは異なる決断をする。
「もう1年、しっかり愛媛でやりたいんです。レベルアップするには、ここでもう1年、試合に出続けることが必要だと思います」
 広島サイドも森脇の思いを汲み、翌年も愛媛に修行に出すことを決めた。

 若手の手本になる“向上心”

 2年目のシーズン、愛媛はリーグ戦で開幕から負けが込み、苦戦を余儀なくされた。満足な結果が残せない中でも、森脇は着実に進化を遂げていた。「1年目と比べると、周りが見えてきて、安心して見られるようになってきましたね」と望月は2年目の成長を明かす。

 何より、「純粋な向上心」があったと明かすのは羽田だ。 
「練習や試合で、“良太、いいぞ”と声をかけても、“羽田さん、まだまだです。こんなんじゃダメなんです”とよく言っていました。ミスをした時も、絶対に人のせいにすることはなかったですね。自分がすべて責任を背負っていた。ここから何が何でも這い上がるんだという気持ちがひしひしと伝わってきました」

 愛媛は広島と違い、当時は専用の練習グラウンドもなかった。環境的には雲泥の差があった。だが、森脇はそれを一切、言い訳にはしなかった。
「どんな場所であっても、一生懸命やれば成長できる。そう信じていました。だから毎日が楽しかったですよ」
 羽田も金守も現役を引退し、現在は若い選手たちの指導にあたっている。教える側になってみて、森脇の姿勢は素晴らしいお手本になると口を揃える。
「彼は愛媛にいた時も今も、ずば抜けたスピードや身体能力、テクニックがあるわけではない。それでもビッグな選手になった。上を目指そうという思いの強さが、彼をここまで大きくさせたんでしょう」

 その姿勢は周りの選手にも大きな影響を与えた。今や愛媛で右サイドバックのレギュラーとなった関根は「アイツがいたから今の自分がある」と断言する。
「守備から攻撃へのつなぎやポゼッションの技術は見習うべきところが多かったです。練習でも一段と努力していたし、年下ですけど、“オレも頑張らないといけない”と思わせてくれる存在でした」
 豊富な運動量に加え、積極的な攻撃参加。関根は自身のプレースタイルを「良太から盗んで自分のものにした」と笑う。
 
 森脇は愛媛でのたくさんの経験を手土産に08年、3年ぶりに広島へ復帰する。その年、広島はJ2降格の憂き目にあっていた。不動の右サイドバックだった駒野友一はジュビロ磐田へ移籍し、若い森脇にはその穴を埋める役割として期待がかかっていた。愛媛で懸命に前を向いて走り続けた2年間が道を切り拓いたのである。

「ヘタクソだったのに、2年間、本当に我慢強く使ってもらいましたよ」
 愛媛を離れてから、もう4年以上の月日が経った。その間、広島で主力選手となり、日本代表にも選ばれた。J1での優勝も経験し、ビッグクラブへの移籍も果たした。しかし、森脇は「愛媛での日々は、かけがえのない時間」と事あるごとに口にする。

 今回の浦和入りにあたっても森脇は自身のブログで、愛媛への愛を綴った。
<愛媛での2年間も僕の中では特別な存在です!!
 プロ選手として、プレー出来る喜び、楽しさ、辛さ…
 ファン、サポーターの存在など沢山の事を学ばせてもらいました!!
 愛媛でのキャリアがなければ今の自分はないと思ってます!!>

 これから、森脇がどんなキャリアを重ねようと、どんなにビッグなプレーヤーになろうとも、あのオレンジ色に染まった2年間を忘れることは決してない。

(最終回につづく)
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<森脇良太(もりわき・りょうた)プロフィール>
1986年4月6日、広島県出身。ポジションはDF。小学2年でサッカーを始め、サンフレッチェびんごジュニアユースを経て広島ユースへ。サイドバックに転向し、クラブユース選手権の連覇などに貢献。高校3年時の04年にはトップチームに2種登録され、ナビスコ杯でデビューを飾る。05年に正式にトップチームとプロ契約。出場機会を増やすため、06年からJ2に昇格したばかりの愛媛へ期限付き移籍。レギュラーとして経験を積む。08年に広島復帰後はチームの主力に定着。守備はもちろん、積極的な攻撃参加でチームに勢いを与える存在に成長する。10年1月には日本代表に初招集。アジアカップで出番はなかったものの、優勝を経験する。12年は33試合に出場して4得点をあげ、クラブは悲願の初優勝を収めた。今季より浦和へ完全移籍。J1通算120試合8得点、J2通算100試合9得点、日本代表2試合0得点。身長177cm、75kg。背番号46。



(石田洋之)
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