愛媛での“修行”を終え、2008年、広島に復帰した森脇はミハイロ・ペトロヴィッチ監督に、レベルアップした姿を見出される。センターバックとして起用され、21試合で5ゴール。J2優勝に貢献した。J1に戦う舞台が変わっても、クラブ内で確固たるポジションを占めた。プロ1年目で感じた厚い壁を完全に突き破っていた。
「サンフレッチェで優勝したかった」

 森脇や高萩洋次郎、槙野智章、青山敏弘といった若い力が躍動した広島は、2010年、初の4大タイトル制覇をかけてヤマザキナビスコカップ決勝に進む。相手はジュビロ磐田だった。広島は1点を先制されながら、前半終了間際にFW李忠成が同点ゴールをあげる。後半の立ち上がりには相手のスキを突き、左サイドを抜け出したMF山岸智が勝ち越しゴール。磐田の反撃にあう時間帯は多かったものの、ゴールは割らせず、悲願達成へのカウントダウンは始まっていた。

 ところが――。後半44分、磐田のストライカー前田遼一に押し込まれて、試合を振り出しに戻される。そのまま延長に突入すると、森脇にとって愛媛時代のチームメイトだった菅沼実に勝ち越し弾を許した。広島は最後まで勝負を捨てなかったが、120分の戦いの末、栄冠は磐田の頭上に輝いた。

 あと数分で届かなかった頂点。試合後、森脇は目を充血させながら、悔しさをあらわにした。
「(相手が)カップを掲げている姿はもう2度と見たくない。下から(その光景を)見上げるのはもう終わりにしたい」

 広島で攻守のキーマンとなっていた森脇は、この年、翌年のアジアカップに向けた日本代表の予備登録選手にリストアップされる。当初は最終メンバーから漏れたものの、故障者の発生により、大会前に急遽、招集を受けた。未来が霧に包まれた中、愛媛に渡ってからちょうど5年、ついに念願のジャパンブルーのユニホームに袖を通すところまで上りつめたのだ。

 日本でもトップレベルのサイドバックとなれば、当然、他クラブからもオファーを受けるようになる。2011年のオフには大宮アルディージャから熱心に誘われた。条件的にも「魅力的なオファーだった」と本人は明かす。しかし、森脇には、まだ広島でやり残したことがあった。それが2010年のナビスコカップでつかみそこねた”優勝”の2文字だった。

「サンフレッチェに育ててもらって、何とかこのチームで優勝したいという思いは強かったですね。地方のクラブで注目度が低い中でも、僕たちは素晴らしいサッカーをしているという自信がありました。こんなにいいチームがあることを優勝して全国の皆さんに知ってもらいたかったんです」

 迷った末に森脇は大宮へ丁重に断りを入れ、残留を決断する。迎えた2012年、広島は新しく森保一が指揮を執り、前任のペトロヴィッチが積み上げた攻撃的なサッカーに守りの要素をうまくミックスしていった。
「ポイチ(森保)さんからは“我慢強さ”を学びました。たとえ失点しても、2点目、3点目はとられない。我慢して我慢して必ず盛り返す。そのことを常日頃から言われました」

 攻守に一層バランスがよくなったチームは快進撃を続ける。そしてベガルタ仙台との競り合いを制しての初優勝。失点は前年の49から34へ大幅に減少していた。その立役者のひとりが森脇だったことは言うまでもない。出場停止になった1試合を除いて33試合にスタメン出場。「攻撃でも守備でも森脇は重要な役割を果たしてくれた」と森保も、その働きには賛辞を惜しまなかった。

 目指すは個人で連覇

 ジュニアユース時代から育ててくれたクラブへ“恩返し”を果たし、森脇はさらなるステップアップの道を選択する。
「広島は本当にサッカーをするには素晴らしい環境です。ただ、この環境に甘えてはいけないと思うようにもなっていました。成長するためには新しいところでチャレンジするしかない」
 そんな時、浦和からオファーが届いた。浦和は、広島に復帰した際、自らを抜擢してくれたペトロヴィッチがチームを率いる。「自分が楽しめるサッカー、自分が生かせるサッカーができる」という観点でも願ってもない話だった。

 もちろんスタイルをよく知っている監督の下でプレーすることが、即成功につながるとは限らない。それは森脇自身も十二分に分かっている。
「広島と同じようなサッカーを目指していますから、戦術理解度の面で不安はありません。でも、広島とは選手が違う。選手が変われば、やるべきことも変わっていきます。コンビネーションの部分を密にやっていかないと、このチームでは長くプレーできないと思います」

 浦和の一員となって埼玉に来て1カ月。開幕までは残りわずかだ。新チーム始動後、宮崎、鹿児島とキャンプを重ね、連係を深めてきた。鹿児島での磐田とのトレーニングマッチを見た愛媛時代の恩師、望月一仁は「新天地でもチームの中心になっていた」と語る。望月は現在、磐田の育成を統括する立場だ。
「彼のプレーを久々に現場で見ましたが、プレーに落ち着きが出てきましたね。愛媛時代なら、相手に対して飛び込んでいたところでも、我慢してブロックできるようになった。レベルが上がったなと感心しましたよ」

 広島時代以来、3年ぶりにDFラインを一緒に形成することになる槙野も「年々、うまくなっている」と森脇の加入を歓迎する。一方で、より高みを目指すべく、こんな注文も忘れない。
「もっと頭を使ってプレーする部分も必要になるでしょうね。勢いだけでは続かないと思うから」
 後輩の鋭い指摘に、森脇は苦笑いしながら頷いた。
「槙野とは“お互い攻撃が好きなタイプだから、どちらも高い位置に上がってカウンターをくらうのは避けよう”と話をしています。でも、槙野はFWじゃないかというくらい上がりっぱなしですからね(笑)。その点は僕もバランスをしっかり考えてプレーします」

 3月2日のJリーグ開幕戦では古巣の広島と激突する。広島のキャプテンでもある昨季の得点王・佐藤寿人は、森脇が抜けた戦力ダウンを指摘する声にも「アイツがいなくても、やるサッカーは変わらないし、何とかなると思う」と強気だ。そして、「僕らのゴールパフォーマンスも、かえって良くなるんじゃないですかね。森脇の考えたネタはいつもスベっていましたから(笑)」と笑顔で“挑発”する。

「連覇に挑めるのは昨季の広島の選手だけ。僕が浦和で優勝すれば“個人で連覇”です。これができるのは、日本でひとりだけ。ぜひやってみたい」
 森脇もシーズンに向けて気合が入ってきた。今季の浦和はAFCチャンピオンズリーグにも参戦するため、一足早く26日の広州恒大(中国)から2013年の公式戦がスタートする。「今までやってきたことを崩すつもりはありません。我が強くなりすぎるのはよくありませんが、自分のカラーを浦和という素晴らしいクラブで出していきたいですね」と語るのは新天地での手応えを感じている表れだろう。

 個人としては「日本代表での2014年のブラジルW杯出場」という夢がある。ただ、今はその思いを封印するつもりだ。
「ここで結果を出さなければ来年はないと思っています。先のことは考えられない。今年が僕にとっての勝負の年です」

 移籍に際し、背番号は46を希望した。これは誕生日の4月6日からきた数字だ。そして4×6=24、つまり広島時代の背番号にもつながっている。広島、そして愛媛で経験を積み、飛躍を遂げた森脇良太は浦和の選手として、いよいよ新たな“誕生日”を迎える。

(おわり)
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<森脇良太(もりわき・りょうた)プロフィール>
1986年4月6日、広島県出身。ポジションはDF。小学2年でサッカーを始め、サンフレッチェびんごジュニアユースを経て広島ユースへ。サイドバックに転向し、クラブユース選手権の連覇などに貢献。高校3年時の04年にはトップチームに2種登録され、ナビスコ杯でデビューを飾る。05年に正式にトップチームとプロ契約。出場機会を増やすため、06年からJ2に昇格したばかりの愛媛へ期限付き移籍。レギュラーとして経験を積む。08年に広島復帰後はチームの主力に定着。守備はもちろん、積極的な攻撃参加でチームに勢いを与える存在に成長する。10年1月には日本代表に初招集。アジアカップで出番はなかったものの、優勝を経験する。12年は33試合に出場して4得点をあげ、クラブは悲願の初優勝を収めた。今季より浦和へ完全移籍。J1通算120試合8得点、J2通算100試合9得点、日本代表2試合0得点。身長177cm、75kg。背番号46。

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(石田洋之)
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