2012年夏、ロンドン五輪で日本バドミントン界の歴史に新たな1ページが刻まれた。女子ダブルスで藤井瑞希&垣岩令佳組が銀メダルを獲得し、日本勢初のメダリストとなったのだ。一方、ロンドン行きは叶わなかった高橋礼華&松友美佐紀組。ロンドンで日本代表の先輩“フジカキ”が快挙を成し遂げていた頃、“タカマツ”も異国の地で殻を破ろうとしていた。


 世界との壁を破りはじめた国際大会

 ロンドン五輪の選考レースに敗れた“タカマツ”は、リオデジャネイロ五輪に向けた世界との戦いをスタートさせていた。“タカマツ”は、これまで国際大会を3度制していた。だが、いずれも下位のグレードのグランプリ大会(GP)などだった。加えて最後に優勝したのは、松友が高校時代の09年のインドオープンGPと、2年半以上も国際大会の優勝から遠ざかっていた。

 そんな“壁”を突き破ったのが、7月のUSオープン・グランプリゴールド(GPG)だ。オリンピック、BWF(世界バドミントン連盟)世界選手権、スーパーシリーズ(SS)に次ぐグレードの大会だ。

 初戦(2回戦)で地元アメリカのペアを下すと、3回戦、準決勝もストレート勝ち。決勝では、約1カ月後のロンドン五輪で銅メダルを獲得するヴァレリー・ソロキナ&ニーナ・ヴィスローヴァ(ロシア)組を21−19、21−17で撃破した。全戦ストレート勝ちで、見事にGPG初優勝を果たしたのだ。

 さらに“タカマツ”の躍進は続く。翌週に行なわれたカナダオープンGPも制覇し、2週連続優勝を達成した。そして2カ月半後のインドネシアオープンGPGでは、地元インドネシアのペアに初戦から3連勝。決勝では韓国のペアに競り勝ち、わずか3カ月の間で国際大会を3つも制したのだ。

 世界を相手に結果を残し、自信をつけていった“タカマツ”は10月、スーパーシリーズプレミア(SSP)のデンマークオープンに出場した。SSPはSSの中でも格の高い大会である。ロンドン五輪の金メダリスト田卿&ツァオ・ユンレイ(中国)組らワールドクラスの選手たちが顔を揃えた。

「当初の目標は、(準決勝で)金メダルペアに当たりたかったので、“そこまでいきたい”というふうに考えていました」

 NO.1ペアからの大金星

 初戦から厳しい戦いが続いた。準々決勝までの3試合はすべてファイナルゲームにもつれる接戦だった。迎えた準決勝の相手は予想通り田卿&ツァオ・ユンレイ組。ロンドンの金メダルペアはここまで3試合ストレートで勝ち上がってきている。加えて、そのシーズンは2敗しかしておらず、BWF世界ランキング1位となっていた。同12位の“タカマツ”は「どこまで自分たちができるか、今の自分たちで勝負しよう」という挑戦者の姿勢で臨んだ。

 松友が前衛で試合を作り、後衛の高橋が強打で決める。第1ゲームは、自分たちの型がうまくハマり、常にポイントをリードする展開。そのまま21−15で先取した。第2ゲームの序盤は“タカマツ”がリードするが、オリンピックの女王ペアも意地を見せる。中盤に7連続ポイントで逆転を許すと、一気に畳みかけられ、このゲームは13−21で落とす。勝負の行方はファイナルゲームへ。

 そこで“タカマツ”の勝利への執念が流れを手繰り寄せる。序盤に8−0と大量リードを奪うと、そのまま相手に逆転を許さなかった。最後は高橋のスマッシュをツァオ・ユンレイが返し切れず、シャトルはコート横に外れた。“タカマツ”は21−10で勝利し、見事、金メダルペアからの大金星をあげ、SS初の決勝進出を果たしたのだ。

 しかし決勝では、ロンドン五輪混合ダブルス銀メダリストの1人・馬晋と湯金華が組んだ中国ペアにストレート負けを喫する。相手は“タカマツ”をしっかりと分析していた。松友を後方に追いやり、得意の型を封じられたのだ。惜しくもSS初優勝は果たせなかったが、それでも“タカマツ”の存在を世界に知らしめた大会となった。

 日本のみならず世界でも結果を出し始めたことで、周囲からの視線は、当然変わっていった。国内ではいつまでも挑戦者というわけにはいられなかった。

 追う立場から追われる立場へ

 10月に開幕した日本リーグでは、“タカマツ”の所属する日本ユニシスは3連覇を目指していた。日本ユニシスは、平山優や潮田玲子ら経験豊富な主軸が引退し、新チームとしてのスタートを切っていた。当然、2年連続リーグMVPの“タカマツ”にかかる期待は大きかった。

「日本リーグは“自分たちが勝たないと、チームが勝てない”というふうに考えてしまっていました」

 敏感に周囲の空気を察知した松友は、自分で自分を追い込んでしまった。それが硬さを生み、結果として如実に現れた。

 リーグ初戦となったNTT東日本戦。第1試合の“タカマツ”の相手は樽野恵&新玉美郷組。ダブルスの日本ランキングでは“タカマツ”が2位に対して29位、BWF世界ランキングでも12位とランク外と、力の差は歴然だった。ところが、第1ゲームを失うと、ファイナルゲームの末、1−2で落としてしまう。

 エースダブルスで先手を奪われた日本ユニシスは、シングルスと第2ダブルスも敗れ、トータルスコア0−3でNTT東日本に完敗した。チームにとって、日本リーグ参戦3シーズン目にして初めての黒星だった。結局、日本ユニシスは4勝3敗で4位に終わり、3連覇を逃した。“タカマツ”も開幕のNTT東日本戦を含め、7試合中3敗を喫するなど不本意な結果となった。

 全日本総合で見せた成長の跡

 ただ2連覇をかけて戦った12月の全日本総合では、自分たちの成長を感じ取ることができた。松友自身はその要因として「気持ちの面で落ち着いてきた」ことを挙げた。昨年の全日本総合での日本一、国際大会での好成績によってレシーブへの自信がつかんでいた。そして、レシーブが安定してきたことによって、相手を見る余裕が生まれていたのだ。攻められている時でも、冷静に相手コートの空いているスポットを見つけ、自分たちが優位な展開に変えられるようになった。着実に成長を遂げていた“タカマツ”は初戦から1ゲームも落とさず、ベスト4進出を果たした。

 準決勝の相手は、前年決勝で対戦し、激闘の末に初優勝を勝ち取った松尾静香&内藤真実組。12年のSSランキングで世界1位にランクインしていた強敵だったが、“タカマツ”は得意の型で圧倒した。松友が相手を崩し、高橋が緩急使い分けたショットで決めた。加えて、松友は相手をあざ笑うかのような逆を突くショットを連発。まさに彼女が真骨頂を見せストレートで完勝した。

 迎えた決勝は、ロンドン五輪銀メダリストの“フジカキ”ペアだ。藤井はこの大会限りで第一線から退く意向を示していた。“フジカキ”は全日本総合を初優勝し、有終の美を飾ろうとしていた。

 試合は“フジカキ”の息の合ったコンビプレーが冴え、主導権を握られると、第1ゲームは競った展開から、抜け出され13−21で奪われた。第2ゲームになっても、“フジカキ”のペースで進んだ。“タカマツ”も中盤に反撃し、1点差まで迫る。それでも“フジカキ”は、怯まない。垣岩が3ポイント連続で決めると、藤井がネット際でプッシュし、“タカマツ”を11−7と突き放す。

 だが、ここで“フジカキ”にアクシデントが起こった。11点目の得点直後、藤井は顔をしかめて、コートに倒れ込んだのだ。11分間の中断を挟み、藤井の右ヒザには何重にもテーピングが施された。痛みをこらえ、プレーを再開した藤井だったが、とても耐えられるものではなかったのだろう。直後、自ら「×」サインを出し、途中棄権となった。

 予期せぬかたちで“タカマツ”は2連覇を手にした。松友は「ああいうふうな形で終わってしまって、残念。最後までやりたかった」と複雑な胸中を口にした。それでも松友の巧みなゲームメイク、高橋のパワフルな強打は、この大会で光っていた。ディフェンディングチャンピオンという立場で、決勝までオールストレートで勝ってきた実力に疑いの余地はない。高橋は試合後の会見で「今後は私たちが引っ張っていけるように頑張りたい」と、次世代の旗頭としての自負を覗かせた。

「歩く姿にも風格があるというか、堂々としていましたね。話していても、言葉の端々に力強さを感じました」
 この日、会場を訪れていた聖ウルスラ学院英智高校時代の恩師である田所光男監督は、松友の変化を感じとっていた。

 一致するペアの目標

 パートナーの高橋が、松友の変化に気づいたのは昨年、国際大会で連勝した頃だった。試合後に2人で話していて、「オリンピックレースだったら、こんな簡単に2週連続優勝できないよね」。高橋がそうこぼすと、松友は即座に返した。

「オリンピックレースでも優勝しましょうよ」

 当時を振り返り、高橋はこう語っている
「それまでは“オリンピックに行けたらいいな”くらいの気持ちでいました。でも、そこで2人のオリンピックに対しての意識が変わったというか、一緒のものになったのかなと思いました」

 その日から、互いにオリンピックへの意識、“もっと上へ”という気持ちを口に出すことが増えていった。

“タカマツ”は、13年に入っても国際大会で、安定した成績を残している。マレーシアオープンSSで準優勝、ドイツオープンGPGでは3位に入った。現在、BWF世界ランキングは2位にまで上昇している。だが、その額面通りに受け取ることはできない。本来、上位に集まる中国人ペアは組み替えを行っており、世界ランキングは大きく変動しているからだ。

 中国の存在は最大の障壁である。オリンピックでは女子ダブルスが正式種目となったバルセロナ五輪以来、5個の金メダルを含む計12個のメダルを獲得している。また、世界選手権では10連覇中と、圧倒的な力を誇っている。

“タカマツ”自身、中国ペアに4勝13敗と大きく負け越している。昨年の全日本総合決勝で苦戦した“フジカキ”にも「中国ペアのような速い展開に対応できなかった」と、松友が課題のひとつに挙げていた。だが高橋は「以前までは、どこかで“負けても仕方がない”という気持ちがありました。でも今は負けて、“悔しい”と思えるようになった」と、バドミントン王国に対する意識の変化を語っている。

 今後の目標について松友に訊ねると、「中国人選手に勝ちたい。その壁を越えたいですね」と答えた。同じ質問をぶつけた高橋からも同様の言葉が返ってきた。2人の頭の中は、“打倒・中国”で一致している。そのためには昨年のデンマークオープン決勝で敗れた時のように自分たちの型を崩された際に、立て直す術を持たなくてはならない。

 ブレない真っすぐな芯

 小さい頃から、“一番”が好きだった松友。何でも一番になりたがった。バドミントンの練習で集合がかかれば、一目散に走っていった。些細なことでも一番になりたかった。負けず嫌いは、父親相手のゲームでも、見てとれた。負かされても、泣きながら何度でも立ち向かった。そして何よりバドミントンが大好きだった。羽根(シャトル)打ちが滅法好きで、練習でも休憩時間を惜しんででも打ちたがるほどだ。

 実は松友が小学2年生の頃、父親は、競技に対する娘の覚悟を試したという。
「本気でバドミントンがしたいんか?」

 その時の真意を父親は語る。
「今考えれば、幼いのに酷な質問だったかもしれません。でも、私も家内もスポーツを真剣にやりたい性分。それに美佐紀が本気でやるとなれば、(自分たちも)ちゃんとサポートしなければいけないと思ったんです」
 父親の問いに娘の回答は「YES」だった。涙を流しながら力強く「本気でやる」と答えたという。

「じゃあオレも頑張るけん、頑張れよ」。それ以降、家族は彼女の試合をビデオで撮影し、反省会をするなど全面的にサポートした。高校に進学する際、宮城に行くと決めた松友を家族は快く送り出した。

 覚悟を決めた人間は強い。コート上で鋭い視線を送る松友の眼を見て、そう思う。インタビュー中も、こちらを真っすぐ見つめる瞳の奥に、彼女の芯の強さが垣間見えた気がした。

 リオ五輪までは、あと3年。だがオリンピックへのレースは、すでに始まっている。この先も世界と出場枠を争い、国内のライバルとも凌ぎを削っていかなければならない。松友には、自分に足りないものを「体力も技術も全部」と答える向上心がある。決してブレない意志の強さこそが、彼女の成長を助けている。“小さな巨人”の快進撃は、これからも続く――。

(おわり)

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松友美佐紀(まつとも・みさき)プロフィール
1992年2月8日、徳島県生まれ。6歳で本格的にバドミントンを始め、小中学生時に全国大会優勝を経験する。中学卒業後は地元を離れ、宮城の聖ウルスラ学院英智高校に入学。2年生時に全国高校総体埼玉大会でシングルス、ダブルス、団体の3冠を達成した。卒業後は日本ユニシスに入社し、09年から日本代表入り。10年には世界ジュニア選手権の女子シングルスで準優勝を果たす。日本リーグでは高橋礼華と組んで、日本ユニシスの10、11年の連覇に貢献。高橋とともに2年連続で最高殊勲選手賞に選出される。11年には全日本総合選手権の女子ダブルスで優勝し、シニアで初の日本一に輝く。翌12年も制覇し、現在女子ダブルスの日本ランキング1位。近年では国際大会で好成績を残すなど、BWF世界ランキング2位(3月21日現在)に入る。159センチ。右利き。

(プロフィール写真:(C)日本ユニシス)

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(杉浦泰介)


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