2002年日韓ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、仙台で行われた日本代表とトルコ代表の試合が0対1で終わった瞬間、「あのおっさんがここにいたら、えらい怒っているやろな」と、里内はジーコの顔を思い浮かべていた。
(写真:ジーコはとにかく負けず嫌いである)
――日本はベスト16で終わるようなチームじゃない。
――自国開催なのにどうして埼玉スタジアムのようなサッカー専用スタジアムで試合をしないのだ。観客席とピッチが近いスタジアムは観客を味方につけることができるのに……。
 里内には、ジーコが真っ赤な顔でまくし立てる姿が想像できた。

 里内は01年シーズンを最後に鹿島アントラーズを離れ、セレッソ大阪のフィジカルコーチに就任していた。住友金属時代から慣れ親しんだ鹿島を離れることには寂しさもあったが、鹿島のテクニカル・ディレクターになっていたジーコは「また戻ってこいよ」と快く送り出してくれた。それが何より嬉しかった。

 日韓W杯終了後、ジーコは日本代表監督に就任した。大会前からフランス人指揮官のフィリップ・トルシエの後任候補には、ブラジル人監督の名前が挙がっていた。その中には、里内がサンパウロFCで教えを受けたテレ・サンターナの名前もあった。テレが監督になれば面白いとも里内は思ったが、日本での経験がなく年齢的な問題もあった。そのため、当時49歳で、日本での経験もあるジーコの就任は自然な流れのように感じていた。

 ブラジルでは監督を中心とした首脳陣を『監督委員会』と呼ぶ。監督は気心の知れたフィジカルコーチ、ドクター、フィジオテラピストなどと共に、1つのチームとして移動することが多い。里内はジーコが日本代表監督に就任した時、ブラジルからフィジカルコーチを連れてくるものだと思い込んでいた。だから「代表でやってみないか」と、ジーコが自分に声を掛けてくれたことは里内にとって嬉しい驚きだった。

 ジーコ率いる日本代表は04年のアジアカップで優勝するなど着実に力をつけ、アジア予選を勝ち抜いて06年ドイツW杯の出場権を獲得した。しかし、 “ジーコジャパン”として記憶に残っているのは、ドイツW杯初戦、オーストラリア代表との試合での惨敗という人も少なくないだろう。

 あの試合、途中までは日本にとって悪い展開ではなかった。前半26分、日本代表は中村俊輔のクロスボールがそのままゴールに入るかたちで先取点を挙げた。ボールを支配していたのははオーストラリアだったが、日本代表の守備陣はしぶとく持ちこたえ、前半を1点リードして折り返した。
 ところが、終了まで残り6分となった、後半39分のことだった。左サイドからのロングスローがゴール前に入ったところに、キーパーの川口能活が飛び出した。しかし川口はボールを触れることはできなかった。オーストラリアのジョシュア・ケネディにボールをヘディングで繋がれ、失点を許した。

「それまで何回もサイドからの攻撃に対する守備を練習してきた。川口は飛び出さないと決めていた。しかし、彼はあの日調子が良かった。だから飛び出してもボールに触ることができると思ってしまったのだろう」
 とジーコは振り返っている。
 その後も、後半44分、47分と続けて失点した。わずか7分間で3失点――日本代表のドイツW杯は事実上、この試合で終わった。

 里内はW杯終了後、ジーコと共に日本代表を去るつもりだった。ジーコから代表に誘われた自分にとって、それが当然だと思っていたのだ。ところが、日本サッカー協会から代表スタッフに残ってくれないかという打診を受けた。「ジーコの他にコーチである兄のエドゥー、通訳の鈴木圀弘などスタッフが全ていなくなると、継続性がなくなってしまう。誰か1人でも残って欲しい」というのだ。

 ジーコの後任はボスニア・ヘルツェゴビナ人のイビツァ・オシムと発表されていた。以前、「オシムが監督を務めるジェフユナイテッド市原(現千葉)は面白いサッカーをしている」と聞き、里内は試合を観に行ったこともあった。小柄な選手が多く、中盤では素早いパス回しでゲームを組み立てていたことが印象に残っていた。里内にとって、経験豊かなオシムの話を身近で聞くことが出来るのは魅力的だった。
(写真:オシムが率いていた時代のジェフ市原は魅力的なチームだった)

「もっとも大切なのは選手なんですよ。みんながいなくなったら収拾がつかなくなる。里内さんが残ることは、オシムさんも当然理解してくれるはず」
 協会の人間にそう背中を押され、里内は“半年契約”で代表チームに残ることになった。

 オシムはテレ・サンターナにどこか似ていた。厳しいのだが、その奥底には真面目に努力する人間に対する愛情があった。里内がオシムと一緒に働くようになってすぐのことだ。あるミーティングで里内はこう尋ねられたことがある。
「06年のワールドカップの23人のメンバーのうち、1人だけ残すとすれば誰を選ぶ?」
 里内は「難しい質問だ」と首を捻った。

 当時、チームの中心は中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一といった中盤の選手だった。しかし、こうしてわざわざ問うているのだから、オシムには何か考えがあるのだろう――。熟慮の末、里内はこう答えた。

「私ならば遠藤(保仁)です。彼はドイツ大会で唯一試合に出ていない。チームが一番苦しい試合で、自分が完全燃焼できなかったことを悔いているでしょう。その前のトルシエ監督が率いていた時のアジアカップにも呼ばれていたのに、彼は使われなかった。遠藤はいつも肝心なところで使われていない。それでも彼は腐らずに努力している。1人だけというならば、彼を残してあなたの元でやらせるべきだ」

 オシムは意味ありげに笑ったが、里内には彼が想定していた答えだったかどうかは分からなかった。ただ、その後、オシムは日本代表の中心に遠藤を置いた。「恐らく自分と同じ考えだったのだろう」と里内は思った。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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