「そこに壁を感じているわけではないですし、自分の中でのゴールではない」
 慶應義塾大学体育会競走部に所属する山縣亮太は、100メートルを9秒台で走ることを「あくまでも通過点」と言い切る。20歳の彼が頭角を現したのは、昨夏のロンドン五輪だ。男子100メートルで日本人として3大会ぶりに準決勝進出を果たした。予選で叩き出した10秒07の自己ベストは、日本歴代4位タイ(当時)であり、五輪に限れば日本人の最高記録だった。


 人類が初めて100メートルを9秒台で走ったのは、1968年。それから45年の月日が経ち、世界では数多のスプリンターたちがその記録を通過していった。今や世界のトップスプリンターたちは、100メートルを9秒台で走る中で優勝やメダル争いをしている。ところが、未だに日本人でその境地に到達した者は、ただ1人とて現れていない。“10秒の壁”を越えられぬ日本人が100メートルで世界と勝負できていないことは、否定できない現実である。

 ロンドン五輪後、日本陸上競技連盟強化委員会の男子短距離部長に伊東浩司が就任した。伊東は現役時代、“10秒の壁”に最も近付いた日本人だ。1998年にタイ・バンコクで行なわれたアジア競技大会準決勝で記録した100メートル10秒00のタイムは、15年経った今も破られていない日本記録である。それに対し、陸上のトラックシーズンが開幕する前、伊東はこう述べている。
「私の記録も今年で終わりかなと思っています」
 それは強化委員としてのリップサービスではなく、自らの“日本記録保持者”という看板を奪う選手が出てきて欲しい、そんな思いが含まれた言葉だった。

 “嵐”のシーズンイン

 4月7日、国立競技場。山縣にとって、今シーズン最初のレースであり、日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)以来、7カ月ぶりの実戦となった東京六大学対抗陸上競技大会が行なわれた。前夜の大雨が嘘のように晴れ渡り、気温も20度を超え、春の陽気がスタジアムを包んでいた。だが、爆弾低気圧の影響で開催すら危ぶまれたほどの強風が吹き荒れていた。

 前日まではスタートの練習がうまくいっていなかったこともあり、山縣は「納得のいくレースができるのか」と不安を抱えていた。さらに走り高跳び用のマットが吹き飛ばされそうになるほどの“春の嵐”は、彼への逆風となった。山縣が登場した男子100メートル予選第2組の時には風速6.4メートルの向かい風が立ち塞がった。「今まで経験した中で一番の強風だった」と語る未知のレースは、「加速を阻止される」という感覚だった。それでもスタートで抜け出すと、他を寄せ付けない圧勝。最後は400メートルリレー、決勝に備えて流す余裕さえ見せた。

 400メートルリレーではアンカーとして出場した。3位でバトンを受け取った山縣は、前を走る早稲田大と法政大のランナーを追い詰めたものの、わずかに届かず、そのまま3着でゴール。最後の100メートルの決勝では、依然として逆風が吹き荒れる中、号砲とともに飛び出すと、30メートル過ぎで抜け出した。淀みない真っすぐなフォームで突き進むと、他の選手に影をも踏ませない圧倒的な走りで駆け抜けた。

 掲示されたタイムは10秒47――。単純に数字だけ見れば、特筆すべきものではない。だが、向かい風4.0メートルという点を考慮すれば、上々の結果といえよう。本人は「動きのキレ自体は良くなかったです。風が向かっていたというのもありますが、スピードに乗り切れていなかった」という。ただ「久々に(レースに)戻ってきて、独特の緊張感がありました。気持ちが高ぶるというか、試合での感覚とか思い出すこともいっぱいあって、そういう経験ができたのは良かったです」と手応えも口にした。加えて「久々にトップを走っていることがうれしかったです」と、素直に喜ぶ一面も見せた。

 約3週間後、山縣は織田幹雄記念国際陸上競技大会に臨んだ。会場のエディオンスタジアム広島は好タイムが出やすい高速トラックと言われ、同大会には山縣を含め江里口匡史(大阪ガス)、高平慎士(富士通)ら五輪出場経験のあるスプリンターが顔を揃えた。ハイレベルな争いの中で、新たな記録が生まれる可能性は十分にあり、否が応でも9秒台への期待は高まっていた。

 山縣はこの大会で昨年、予選で当時の自己ベストとなる10秒08をマークし、優勝している。さらに広島は生まれ育った地元でもあり、小学生の頃から出場している思い入れの強い大会だった。彼がこの舞台の主役になるのは、必然にすら思えた。だが、そうはいかなかった。日本陸上界に新たな“気流”が吹き込んだのだ。

 地元で味わった屈辱

 織田記念には、男子100メートルに限らず、女子100メートルには福島千里、男子やり投げには村上幸史、ディーン元気ら日本陸上界のトップアスリートが集った。大会の最終日には1万7000人の観衆がつめかけ、好記録や好勝負への期待が寄せられていた。

 山縣は100メートルの予選第1組に出場した。この組のスタートを待つ場内には、何かが起きそうな雰囲気がにわかに漂い始めていた。5レーンの山縣の左隣には、高平。北京五輪400メートルリレーの銅メダリストであり、ロンドン五輪ではリレーメンバーとしてともに戦った。3レーンには高校時代からのライバル・九鬼巧(早大)、7レーンには11年アジア陸上競技選手権神戸大会で銅メダルを獲得した川面聡大(ミズノ)がいた。

 山縣は序盤でリードを奪うと、そのまま逃げ切った。10秒17の好タイムに歓声が沸く。ただ本人は「中盤からの加速が乗り切れなかった」とレース直後に課題を挙げるなど、決して納得のいく出来ではなかった。この時、追い風0.1メートル。そしてフィールド内では、女子やり投げの日本新記録が生まれていた。その余韻もあって、依然として、スタジアムにはどこか落ち着きのない“空気”が残っていた。それは先の決勝への期待感なのか、言葉では表せないものが潜んでいるようにも思えた。その後、風は徐々に強まり、それに呼応するかのように、スタンドのボルテージも上がっていった。

 この日、主役の座に躍り出たのは山縣ではなく、3歳下の世間ではまだ無名の高校生だった。「10秒01」という数字が飛び出したのは、予選第3組だった。掲示板にタイムが表示されると、会場は大きくどよめいた。“最速の高校生”の異名を持つ桐生祥秀(洛南)が今季世界最高(当時)、世界ジュニア(20歳未満)タイ記録、そして伊東の持つ日本記録に100分の1秒と肉薄する日本歴代2位の記録を叩き出したのだ。

 予選から2時間半ほど経過して、迎えた決勝。山縣の隣のレーンには桐生が立っていた。観衆の視線が、2人に注がれていた。だが、好スタートを切ったのは、そのどちらでもなく日本選手権4連覇中の江里口だった。予選第2組を1位通過したものの、10秒34。このまま年下2人に負けるわけにはいかないとの意地もあったはずだ。

 しかし、桐生の実力は本物だった。徐々に加速して江里口をかわすと、中盤からはひとり抜け出した。それを追いかける山縣も桐生の勢いに引っ張られるかたちで加速し、終盤、一気に差を詰めた。しかし、わずかに届かず10秒04で2位。先着した桐生には、100分の1秒及ばなかった。この好勝負にスタンドからは大歓声が沸き起こり、称賛の拍手が贈られた。

 追い風2.7メートルのため、決勝で出したタイムは参考記録となったが、10秒0台を出したことで十分に力を証明した。だが山縣にしてみれば、屈辱のレースとなった。年下に負けたのは、中学3年以来だという。地元・広島で後塵を拝したかたちとなり、「期待してくれていた方々に申し訳ないと思っています。責任を負える選手になりたかったが、まだ自分にはその器がなかった」と唇を噛んだ。しかし、すぐに「でも、あきらめじゃない。今回の結果をしっかりと受け止めて次につなげたい」と前向きな姿勢を見せた。

 レース後、北京五輪400メートルリレー銅メダリストの朝原宣治は「10秒0台で2人とも肩を落としていました。どれだけ上を見ているのか」と舌を巻いた。そして伊東は「持っているものが高い選手だなと感じました。(いつもと違うレース展開にも)引き出しの多さを見せてくれた」と、2位の山縣に好評価を与えた。現役時代、日本陸上界を牽引し、歴史に名を刻んできた彼らは、若手の台頭に新時代の幕開けを感じたに違いない。

 時間に正確な“リニアモーターカー”

「レースの自動化ができる」。山縣について伊東は、こう表現する。「自分で考えながら走ることのできる非常に頭が良い選手です。自分や末続(慎吾)とは違って、(レースごとの)タイムに幅がない」
 山縣は常に本番で実力を出すことができる。ロンドン五輪でも自己ベストをマークするパフォーマンスを見せた。それは競技に対する論理的な考えや意識の高さによって構築され、走りの安定感を生んでいるのだ。

 山縣自身も「100メートルという競技を明確にとらえられている。ただ漠然と100メートルを走るのではなく、100メートルのことを誰よりも考えている自信はあります」と胸を張る。彼は自分の走りを感覚だけではなく、ビデオを見直して研究している。これは小さい頃からの変わらぬ作業だ。無意識のうちに生じるズレを見つけるために先輩やトレーナーの意見にも耳を傾け、レースで色々と試す。試行錯誤を繰り返しながら主観と客観とを照らし合わせる地道な作業を決して怠らない。

 慶應大の競走部監督の川合伸太郎は、そんな彼の走りを「リニアモーターカー」と形容する。スタートから中盤にかけての加速に至る動きや、その後のスムーズで滑るような走りが、高速で走る鉄道車両をイメージさせるのだという。

 実際、山縣自身が理想とするのは力みのない自然な流れの中での走りだ。「力で走ろうとすると、身体の中心から遠い末端の部分で走ることになるんです。そうすると、筋肉に負担がかかってしまいケガをしやすい。いい走りとは、ガチガチに力んだ走りではなくて、身体の中心を意識した上でのナチュラルな走りだと思うんです。力を抜くところは抜く。僕は力任せにならない走りを心がけています」

 走るという運動は、接地と離地を繰り返し、前へと進むことから成る。山縣が求めるのは、その一連の動作をいかに力むことなく、自然に運べるか。“力”ではなく、“流れ”で走る――。それが彼の描く理想の型だ。とはいえ、プレッシャーを感じたり、勝ちを意識すると、自然と身体に力みが生じるものだ。山縣にも、実はそんな場面は幾度とあった。

(後編につづく)

山縣亮太(やまがた・りょうた)プロフィール>
1992年6月10日、広島県生まれ。10歳で広島ジュニアオリンピアクラブに所属し、本格的に陸上競技を始める。中高一貫校の修道に進学し、高校2年生時には世界ユース選手権に出場。100メートルで4位に入ると、メドレーリレーでは第2走者として銅メダル獲得に貢献した。高校3年生時はインターハイで100メートル3位、日本ジュニア選手権では100メートル、200メートルの2冠を達成。慶應義塾大学入学後は、1年の秋に山口国体で100メートルの日本ジュニア新記録(当時)を樹立し、3位入賞した。2年では織田幹雄記念国際を制し、五輪派遣標準記録を突破。日本選手権で3位に入り、ロンドン五輪の日本代表に選出された。同五輪では100メートルで準決勝進出を果たし、400メートルリレーでは第1走者として5位入賞に貢献した。177センチ、70キロ。

(杉浦泰介)


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