ある日、2歳上の兄が陸上の大会で入賞し、賞状をもらって帰ってきた。小学校3年の山縣亮太の目には、それはとても大きく見え、そして眩しく映った。「来年は僕が賞状をもらう!」。そう決意した。そして1年後、山縣は広島スポーツ交歓大会の小学校4年生の部の100メートルに出場し、ぶっちぎりで優勝。ひときわ小さな少年の圧勝劇に会場はどよめいたという。山縣は賞状どころか、メダルまで獲得した。1年前、兄の背中を追いかけ始めた弟は、その兄を一気に追い越したのだった。


 この優勝をきっかけに広島ジュニアオリンピアクラブ(JOC)に入団することになった。同クラブのコーチ藤本法生の友人に、当時山縣の兄の担任だった林信一郎がいた縁もあった。広島JOCは、為末大や徳本一善らを育てた県下の名門。同クラブ創設メンバーのひとりである藤本は山縣に対し、「腰の位置があまり動かない“安定した走りをしている子だなぁ”」との第一印象を抱いたという。

 元々は野球少年だった山縣。しばらくは陸上競技と両立させていたが、小学校5年から陸上に専念した。その年の全国大会に出場し、100メートルで8位入賞。6年時には、リレーで全国大会に出場した。当然、小学校の運動会では、ヒーローだった。リレーのアンカーを任され大活躍し、クラスでも人気者。小学5、6年の2年間、担任を務めた林は、こう証言する。
「いつもニコニコしていて、笑顔しか思い出せないほどです。男女関係なく、みんなから“やまちゃん”と呼ばれて、とても好かれていましたね」

 一方、広島JOCで約2年半指導した藤本は語る。
「“基本は教えるから、あとは自分なりに考えてやりなさい”というのがウチの方針でした。でもなかなか子供って、自分で考えてはできない。でも、山縣は自分で考えてやっていましたね。言われたことに対しても、理解が早かった。だから、人からの話にちょっと工夫を加えて、自分に合ったものを見つけていました」

 インターハイのリベンジ

 中学校からは中高一貫校の修道に進学した。山縣が全国的に頭角を現し始めたのは、高校生になってからだ。1年時には国民体育大会少年男子Bの100メートルで優勝した。2年時には、世界ユース(18歳未満)選手権大会に出場し、100メートルで4位入賞。メドレーリレーでは第2走者(200メートル)として、日本の銅メダル獲得に貢献した。だが、実はその大会で左足の親指を痛めていた。「アドレナリンとテーピングでカバーした」中での好成績だったのだ。

 しかし、直後の奈良での全国高等学校総合体育大会(インターハイ)では足の痛みが限界に達し、予選落ちに終わった。診察を受けると、痛めていた箇所は骨折していたことが判明した。山縣は、翌年の2月まで走れない日々が続いたが「来年のインターハイで総合優勝する」がリハビリでのモチベーションとなっていた。

 そして迎えた夏の沖縄インターハイ、3種目に出場した山縣は、100メートルでは順当に勝ち進み、決勝までコマを進めた。だが結果は、前年度王者・和歌山北高の九鬼巧に連覇を許した。まわりを意識し過ぎるあまり硬くなってしまい、本来の走りができなかったのだ。九鬼には100分の3秒届かず、意識していた隣のレーンの中山泰志(甲南高)にも、わずかに敗れ、3位。200メートル、アンカーを担った400メートルリレーでは決勝にすら進めなかった。男子の学校対校の得点でも、修道は10位に終わった。

 インターハイでは1年前のリベンジを果たせなかった山縣だが、その後すぐに借りを返してみせた。その年の10月、千葉での国体で少年男子Aの100メートルで九鬼、中山に競り勝ち、優勝。さらに1週間後の日本ジュニア(20歳未満)選手権で100メートル、200メートルの2冠を成し遂げたのだ。特に200メートルでは、7月の世界ジュニア選手権で金メダルを獲得していた飯塚翔太(中央大)に先着する強さを見せつけた。

 有終の美を飾った山縣は、高校卒業後は生まれ育った広島を離れ、神奈川の慶應義塾大学に進んだ。修道の陸上部では、練習メニューを自分で決めるなど、ある程度個人に任されていた。慶應大体育会競走部も自主性を重んじており、自由な雰囲気があった。それが決め手となり、同大学を選んだのだ。

 初の大舞台で持ち帰ったもの

 国内ではジュニア世代のトップスプリンターとなった山縣。だが、小さい頃は全国大会ですら遠い存在に感じていた彼にとって、世界の大舞台は夢のまた夢だったに違いない。オリンピックを意識するようになったのは、大学1年(2011年)の山口国体で五輪の派遣標準記録Bを突破してからだ。成年男子の100メートルで、当時の日本ジュニア記録を更新する10秒23で3位に入った。
「“オリンピックを狙えるんだな”と、ようやく現実味が帯びてきました」

 翌年4月、地元・広島での織田幹雄国際記念陸上競技大会で100メートルに出場した山縣は、予選で10秒08をマークした。日本歴代5位(当時)のタイムで、派遣標準記録Aを突破し、一気にオリンピック代表候補へと、のし上がった。そして代表選考会となった6月の日本選手権では、3位に入った。大会翌日の日本陸上競技連盟の理事会で正式に代表に選出され、初のオリンピック出場を決めた。

「オリンピックには魔物が棲んでいる」と言われる。これまで多くのアスリートが大きなプレッシャーに潰され、力を出し切れないままオリンピックを後にしている。本来は「緊張するタイプ」と話す山縣も、そうなってもおかしくはなかった。実際、彼はこれまでに経験したことのない重圧をひしひしと感じていた。「走ることに対して、ものすごく責任を感じました。高校時代もチームの看板を背負っていましたけど、あの時ほど、強く意識したことはありません」。それでも彼は、そのプレッシャーに押し潰されることはなかった。
「自分が速くなることを求めていたわけですし、“この緊張感は自分の望んでいた世界へ入る代償だな”と。それに逃げたくなるようなプレッシャーを感じられることは、競技者として有難いことだと感じました。自分がそこまでの舞台に立ったという、ひとつの実感でもありましたから」

 覚悟を決めた男に、怖いものはなかった。迎えたロンドン五輪、100メートルの予選第6組に出場した。同組にはジャマイカのヨハン・ブレークがいた。11年世界選手権大邱大会の金メダリストで、国内での予選では“世界最速”のウサイン・ボルトを破っていた。そんな強敵にも山縣は目もくれなかった。まわりの音も聞こえず、見えていたのは自分のレーンだけ。極限の集中状態。いわば“ゾーン”に入っていたという。レースは好スタートを切った中国人選手以外は、ほぼ横並びの状態。途中からブレークが一気に抜け出すと、追いかけるように山縣も加速していく。1位のブレークには0秒07及ばなかったが、自己ベストの10秒07を叩き出す堂々の走りを見せた。

 翌日に行われた準決勝では、山縣の両脇のレーンにブレーク、そしてタイソン・ゲイ(米国)が並んだ。それでも「自分の走りをすればいい」と、脇目もふらなかった。予選と同じように集中していた山縣は好スタートを切り、ブレークとゲイをも従えて先頭に立った。しかし、山縣がトップスピードに達した時、ブレークとゲイはさらに加速していった。あとは離される一方だった。さらに後続の選手たちが迫ってくる。山縣は後半の伸びを欠き、6着に終わった。サードベストの10秒10を記録したが、山縣は自分の走りに納得していなかった。「勝つためには負けを恐れないレースをしなければいけなかったんです。でも負けるのが怖くなって、3位をとりにいく欲をかいて力が入ってしまった」。日本人として、同種目80年ぶりの決勝進出には、届かなった。

 400メートルリレーでは、個人戦での勢いを買われ、第1走者を任された。彼の快走もあり、9レーンを走った日本チームは、38秒07の全体4位で予選通過。日本歴代2位の好記録で決勝へ進出した。決勝では、38秒35で5位入賞を果たしたが、それでも山縣は満足していない。「ひとりひとりが役割を果たせば、メダルを獲れたと思っています」。決勝を走った4レーンは予選の時と比べて、カーブがきつく「加速に乗り切れなかった」。だが「それは最初からわかっていたことです。準備が足りなかった」と、自らを責める。ロンドン五輪では、自信とともに悔しさも持ち帰った。ただ、彼のオリンピックでの活躍は、日本陸上界に一筋の光を照らしたことも事実だった。

 責任を背負って立つ覚悟

 ロンドン五輪で快進撃を見せたことにより、山縣に対する周囲の期待は膨れ上がった。“9秒台に最も近い男”として、メディアには取り上げられるが、彼の目標は「インカレでポイントをとれる選手になること」だ。その真意を「結果が求められる中で、責任感を持って走れる選手。それが代表の自覚にもつながる」と語る。加えて、昨年の関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)、日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)でケガをした苦い記憶がある。ロンドン五輪後の日本インカレを迎えた時には、自分では気づけないほど、それまでの連戦で肉体は消耗しきっていた。100メートルの準決勝ではトップでゴールを切ったものの、4カ月前の関東インカレで痛めた右太腿の肉離れを起こしてしまう。そこから実戦復帰まで、7カ月の時間を要した。

 当時を振り返り、山縣は「自分の責任感のなさが招いた。防ぐことのできたケガだった」と悔やむ。そして語気を強めて、こう続けた。「時間が戻らない以上、次につなげていかないといけない。おかげで気付けたことはありますが、“ケガして良かった”なんて絶対に思わない。僕がケガをしたせいで、インカレで負けて、涙して卒業していった先輩たちがいるんです」

 山縣は、決して自分に言い訳をしない。それは大学1年から空手の道場に通ったことで、その思いを強くした。武士道では、生きるか、死ぬかの世界。当然、言い訳は通用しない。調子が出ないから、コンディションが悪いからという理由では、相手は待ってくれない。それは結果が求められる勝負の世界にも通ずる。

 現在は、6月に東京での日本選手権を控えている。同大会では、8月のモスクワでの世界選手権(世界陸上)の代表切符がかかっている。世界陸上を「リベンジの場」と位置付けている山縣にとっては、何としても代表権を手に入れたいはずだ。大学1年で初出場した日本選手権では100メートルは4位だった。昨年は3位と、ここまで優勝はない。ただ本人は「日本選手権でカツカツになって、やっと勝てるという選手では世界で勝てない。僕は世界の決勝を見据えているつもりです。出る、出ないのところで悩みたくはないんです」と言う。それは傲りではなく、常に上を見ていたいとの気持ちからくるものだ。

 山縣には「競技者である前に、人であれ」との思いがある。それは数々のトップアスリートを診てきた名スポーツトレーナーの白石宏との出会いが大きい。高校時代に近所にあった治療院の院長が白石だった。最初は治療目的で通っていたが、担当医を通じて白石と話をする機会ができた。白石との対話で、一番心に残っている言葉がある。「山縣君は9秒台を出す。ただ、そのことだけを目的としてほしくない。人間的に成長してほしいんだ」。当時の山縣は“速く走る”ということを追求する中で、タイムだけを求めていた自分に違和感を覚えていた。白石の言葉はスッと染みわたっていった。だから100メートルを、陸上競技を「自分との戦い」と捉えている。

 山縣の走りを肉眼で見ると、軸がブレず滑らかな足の運びをしている。だが、離地している写真では、隣を走る他の選手よりもバネがあり、まるで空を飛んでいるように映る。「飛ぶように走る」。かつて武豊騎手が名馬ディープインパクトをこう表現したことを思い出した。日本の競馬界を疾風の如く駆け抜けた7冠馬のように、山縣にも見る人の期待を背負っている。そんな重責も“日本人初の9秒台”や“世界大会でのファイナリスト”ですら、颯爽と跳び越えていく気さえする。

 今もなお“日本人初の9秒台”を巡る狂想曲は続いている。それに対して山縣は「注目していただけるのは、有難いです。9秒を出すと、まわりが変わる。大人の対応をしなければならない。その責任を背負う覚悟はできています」と答える。礼儀正しい20歳の好青年だが、言葉の端には勝気な部分をのぞかせる。そんな男に日本人の夢を預けたくなる。日本陸上界の歴史を塗り替えるのは、山縣亮太だと私は信じて疑わない。

(おわり)
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山縣亮太(やまがた・りょうた)プロフィール>
1992年6月10日、広島県生まれ。10歳で広島ジュニアオリンピアクラブに所属し、本格的に陸上競技を始める。中高一貫校の修道に進学し、高校2年生時には世界ユース選手権に出場。100メートルで4位に入ると、メドレーリレーでは第2走者として銅メダル獲得に貢献した。高校3年生時はインターハイで100メートル3位、日本ジュニア選手権では100メートル、200メートルの2冠を達成。慶應義塾大学入学後は、1年の秋に山口国体で100メートルの日本ジュニア新記録(当時)を樹立し、3位入賞した。2年では織田幹雄記念国際を制し、五輪派遣標準記録を突破。日本選手権で3位に入り、ロンドン五輪の日本代表に選出された。同五輪では100メートルで準決勝進出を果たし、400メートルリレーでは第1走者として5位入賞に貢献した。177センチ、70キロ。

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(杉浦泰介)


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