オリンピックの実施競技に非ざるものはスポーツに非ず――。このところ、そんな空気が蔓延してはいまいか。
 2020年夏季五輪実施競技の最終候補として8競技の中からレスリング、野球・ソフトボール、スカッシュの3つが生き残った。スポーツの大会にたとえれば、やっとの思いで準決勝を勝ち上がったようなもの。決勝の舞台は9月8日、ブエノスアイレスで開かれるIOC総会だ。ここで28競技が正式決定する。
 3競技団体ともIOCの意向に沿って、大幅なルールの見直しを提案した。勝敗を分かりやすくするため2分3ピリオドを3分2ピリオドのトータルポイント制に改めることを決定したレスリング。スカッシュは既にラリーポイント制の導入に踏み切っている。野球にいたっては9回制から7回制に変更するという話だ。

 誤解なきよう申し上げるが、私はルールブックを不磨の大典だと考えるものではない。もとより指一本触れるな、という性質のものではあるまい。しかし、今回のルール変更は競技団体からの自発的な動きではなくIOCの顔色を窺った結果との印象が強い。果たして、それはスポーツにとって健全な姿なのだろうか。

 周知のように五輪に採用される競技団体はIOCから多額の助成金を得ている。その原資のかなりの部分がテレビの放映権料だ。ちなみに09年から12年にかけてのIOCが獲得した放映権料は39億1400万ドル(約3950億円)。IOCが見栄えのいい競技を好む理由がそこにある。

 長いものには巻かれろとばかりに、ともあれ五輪競技として生き残ることを最優先すべきだとの風潮は現実を反映している。蚊帳の外に置かれてしまっては普及はままならず、強化資金も集まらない。意に反したルール変更も、耐え難きを耐え、忍び難きことを忍んだ帰結なのだろう。

 仮に最終的にレスリングが選ばれたとしよう。2月のIOC理事会での除外候補決議は、いったい何だったのかということになる。お上の意向を忖度することが生き残りの第一条件だと知れば、この先、競技団体間の歪んだ忠誠心競争を助長することになりはしまいか。競技団体の生殺与奪の権を握る“スポーツの総本山”に慈愛の精神を求めるのは、ないものねだりに過ぎないのだろうか……。

<この原稿は13年6月5日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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