リュージュはボブスレー、スケルトンと並ぶ3大ソリ競技のひとつだ。ソリの上に仰向けで寝た姿勢で曲がりくねった坂道を滑走し、1000分の1秒を競うリュージュ。男子1人乗り種目では、1000メートルを超えるコースを最高時速140キロ超の高速で滑り、ボブスレーとともに“氷上のF1”と呼ばれている。スピードに乗った状態でソリごとコースの壁にぶつかることもあり、身体への衝撃も大きい。常に危険と隣り合わせのスポーツだ。そのスリルに魅せられた男がいる。現在、ソチ五輪を目指す日本代表の金山英勢(札幌学院大)である。

 逆境の中で感じた手応え

 昨年12月、金山は長野での全日本選手権大会に、海外遠征から一時帰国して出場した。金山にとって3連覇がかかった重要な大会だった。ところが、思わぬアクシデントが起きた。なんと手違いで札幌から届くはずの自分のソリが大会前々日まで届かなかったのだ。直前でようやく自らのソリで試走できたものの、シーネ(滑走面についている刃の部分)が万全な状態ではなかった。周囲と相談した結果、それまでの練習で借りていた先輩のソリで出場することにした。ただ身長169センチと小柄な金山にとって、180センチ近い身長の先輩のソリは大きかった。サイズの合わないソリに乗れば、コントロールが難しく、不安定になる。そうしたハンデを抱えながら、大会に挑んだ。

 同大会にはソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバーと3度のオリンピックを経験した小口貴久が出場していた。金山にとって、初優勝した2010年までは、全日本を4度制している小口に勝つことが目標だった。だが、今は違う。「日本代表として海外遠征に派遣されているのは、今は僕しかいないんです。ここで負けたら、自分が海外に行く意味がなくなってしまう。それに全日本選手権で勝たないと世界とは戦えないと思っているので、必ず勝たないといけない大会でした」

 ハンデを抱えたうえ、“負けられない”プレッシャーのかかるレースだったが、金山は動じなかった。1本目で49秒912の大会新記録を叩き出すなど、合計タイム1分40秒086で優勝。見事に3連覇を果たした。ただ、金山は満足していない。課題としていたスタートがうまくいかなかったのだ。自身が目標に置いていたスタートでのタイムは、3秒17台。自己ベストの3秒21台からの大幅な更新を狙っていた。だが、本番では1本目3秒237、2本目3秒240だった。もちろん、自分のソリを使えなかったストレスは多分にあっただろう。それでも本人はそのことを口に出さず、言い訳にはしなかった。

 このレースはアジアカップも兼ねており、海外選手も出場していた。日本人選手の中ではトップだった金山の記録は、アジアカップとしては長野五輪から4大会連続五輪出場を果たし、前年度王者のシバ・ケシャバン(インド)に0秒455及ばず2位だった。だが、インドの第一人者に敗れたものの、手応えもつかんでいた。この日、1本目で出した自身初の49秒台には金山も驚いたという。終盤、カーブの出口で壁にぶつかりバランスを崩したこともあって、そこまでのタイムが出るとは思っていなかったからだ。それでも好記録が生まれた要因を「滑りの安定」だと彼は分析している。

 2012-13シーズン、金山は海外大会参戦3年目にして初のワールドカップ(W杯)全9戦に出場した。いずれも本選には進めなかったが、滑りに安定感が増したのは、全日本を含めて自らの肌で感じ取っている。前年春から、体幹を鍛えるために取り入れたレッドコードトレーニングが奏功したのだ。レッドコードトレーニングとは、赤い紐を足など体の一部に結ぶなどして固定し、宙吊り状態になりながら行う筋力トレーニングだ。陸上の女子短距離選手の福島千里が実践していることでも知られる、このトレーニングのおかげで滑走中のフォームが安定した。「滑走中は首に重力がかかり、それに耐えようとして段々頭が上がってくるんです。そうすると、風の抵抗を受けてしまう。それを防ぐために首も鍛えました。2年前まではシーズン終盤になると、疲れが出てきて、首がガッツリ起き上がり、風の抵抗をもろに受けてしまうこともありました。でも、今年は疲れを感じることなく滑れましたね」。結果には満足していないが、ソチ五輪へ向けて、自らの成長を感じ取れた。

 中学時代に築かれた不屈の精神

 北海道札幌市に生まれた金山は、小さい頃から好奇心旺盛で目に付くものは何でもやりたがったという。母親は言う。「ヤンチャで落ち着きのない子で、とにかくおとなしくできない子でしたね」。金山が体を動かすことが好きだったこともあり、母親は幼稚園から小学校までは、スキー、水泳、空手など色々な競技を経験させた。

 そんな金山がリュージュに出合ったのは小学校5年生の時だった。実は、最初に目についたのはスケルトンだった。日本で同競技の第一人者である越和宏の活躍をテレビで見たことがきっかけだった。さらにスケルトンという名前の響きにも「カッコいいなぁ」と惹かれた。一方、息子がスケルトンに興味をもっていることを知った母親は地元の広報誌『広報さっぽろ』で、リュージュの体験会の募集広告を見つけた。母親としては、リュージュについての知識はなかったが、スケルトンと同じソリ競技であったこともあり、「体験できれば話のネタぐらいになるよ」との軽い気持ちで我が子に薦めたのだった。

 実際にリュージュを体験してみて、金山はこう感じたという。「氷の上をサァーッと滑るのが、すごく新鮮で楽しかった。元々、スキーも得意でスピード系の種目が好きだったんです」。そのスピード感に魅せられ、彼はリュージュの虜になった。滑れば滑るほど、タイムが伸びていくのもうれしかった。初めて滑った1週間後、早速地元のリュージュ少年団入りを決めた。

 当時、日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟でリュージュの全日本強化コーチを務めていた村川誠一は、主にジュニアの選手たちを見ていた。競技を始めたばかりの金山とは、札幌市藤野リュージュ競技場で偶然、出会ったという。村川は、その頃の印象をこう語る。
「変わった子がいるなぁと。ひとりでどんどん距離を伸ばして、他の子供たちが休憩していても、何度も滑っていた。またフォームもキレイで、安定した滑りをする子でしたね」
 好奇心旺盛な金山は、人一倍向上心が強かった。他の子たちが400メートルほどしか滑れていない時に、金山は600メートルのコースを滑っていた。
「非常に真面目で、何事にも真剣に取り組んでいました。こちらがアドバイスをすると、その通り滑ることができる。飲み込みの早い子でしたね。それにどこが悪かったのかも自分で分かる選手でした」
 類まれな吸収力と修正力でメキメキと力をつけた金山は、翌年から全日本ジュニアの遠征に参加するようになった。

 小さい頃は様々な競技に触れていた金山だが、中学生になると冬場はリュージュをやり、それ以外の時期は陸上競技に勤しんだ。走ることも大好きだった金山は、短距離選手として活躍し、2年時には札幌市で100メートルの上位に入るタイムを持っていた。この頃は全国大会に行けるかもしれないとの期待も抱いていたが、途中で顧問不在という事態によって陸上部は廃部となってしまった。自分とは関係のないところで、陸上への道が閉ざされてしまったことにより、失望の思いは小さくなかった。

 それでも救いの手を差し伸べてくれる人がいた。陸上大会などで知り合っていた別の中学に通っていた友人が、金山に声をかけたのだ。これをきっかけに金山は転校を決意した。必要とされる場所を見つけた彼は、再び走ることの喜び、スポーツを続けられる幸せを噛みしめた。結局、全国大会には進むことはできなかったが、“苦しいからといって、諦めてはいけない”“簡単に引き下がってはいけない”との思いを強くしたのだろう。現在の金山に自分の長所を訊ねると、「最後まで諦めないこと」と答えた。そのルーツは、きっと友人との絆とともに、この時に生まれたのだろう。高校に進学して以降も、金山には逆境が立ち塞がってきた。それでも彼は決して屈しなかった。

(後編につづく)


金山英勢(かなやま・ひでなり)プロフィール>
1990年9月26日、北海道生まれ。小学校5年の時に、リュージュと出合い競技を始める。同競技を続けながら中学、高校時代は陸上部にも所属した。札幌学院大学に進学後はリュージュに専念。09年にナショナルチーム入りすると、10年には全日本選手権で初優勝、以降3連覇を成し遂げる。12-13シーズンはアジア選手権2位、世界選手権35位。U-23世界選手権では2年連続となる8位入賞を果たす。W杯は全9戦に出場し、現在世界ランキングは40位。169センチ、76キロ。
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(競技写真提供:金山英勢)

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(杉浦泰介)
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