西本恵「カープの考古学」第103回<カープを救った“単月エース”渡邉信義編その7/ダブルヘッダーで完封&セーブと大車輪の活躍>
カープ3年目のシーズンは、草創期のエース長谷川良平の名古屋事件により幕を開けた。これにより、長谷川が名古屋軍にかくまわれ、開幕戦にエースが投げられないという事態に陥る。勝ち星の多くを長谷川に頼り切っていたカープの台所事情において、絶体絶命の窮地を救ったのが渡邉信義だった。前年の昭和26年夏、カープにテスト入団。広島県庁耕地課勤務で軟式野球部からの転身という異例の入団であったが、石本秀一監督は、彼をじっくりと育て上げた。1年目はリリーフ起用に徹し、2年目夏から先発転向させての育成だった。
チームが勝てない時期に渡邉が1カ月と10日間で6勝をあげる。シーズン終盤の登板間隔は、中2日のみならず、中1日もこなしながらの活躍を見せた。最下位のカープは勝率3割を目指し、6位の確保に向かって、松竹ロビンスとの一進一退の攻防が続いていた。
2日連続ダブルヘッダー
9月17日、18日の試合は、松竹との4連戦であった。現代のプロ野球では考えられないことだが、2日間ともにダブルヘッダーで行われた。
初戦は、カープ大田垣喜夫と、松竹のエース小林恒夫の投げ合いとなった。初回の大田垣の立ち上がりをうまく攻めた松竹が、3対0でカープ相手に底力を見せれば、第2戦は1対1で引き分けた。
2日目の18日は、カープ先発は単月ながらエースの座を射止めた渡邉で、対する松竹は片山博が先発した。
ともに最下位争いをしているチームだが、セントラルリーグ連盟の3割規定に屈するものかと戦い続けていた。試合は4回までは均衡を保っていた。口火を切ったのはカープ打線の中でも、ここぞで勝負強さを発揮する7番の長持栄吉であった。5回表にヒットで出塁した長持は、続く塚本睦夫の内野ゴロの間に、相手守備の送球エラーもあって得点圏に進んだ。
これで勢いづいたか、6回表には門前眞佐人のホームランで4対0とし、勝負をほぼ決定づけた。この日の渡邉の投球内容からして、松竹に到底追い上げることはできまいと諦睦めさせる雰囲気になった。カープは8回に2点、9回にも1点を加え、7対0と圧勝した。渡邉は松竹打線相手に2安打完封劇を演じた。
ダブルヘッダー2日目の第1試合を快勝したことで勢い付いたカープ打線は第2試合も力強かった。4回表は4番の大澤清、5番の長持の連続ヒットでチャンスをつかむと、7番の塚本博睦がセンター前にはじき返して先制した。7回表にも1番の白石がランナーをサードに置いた場面で、外野フライを放った。終盤に入ると先発・杉浦竜太郎から、再び渡邉への継投策に出た。この日の渡邉は打てないと、起用した石本監督の采配が的中し、3対0と2試合連続での完封劇を演出したのである。
すごいぞ、渡邉——。ファンから称賛の声が飛び交い、評価も頂点に達したことだろう。
渡邉が投げれば負けない。カープは、この日、再び、最下位を脱出したのである。
<カープ六位に返咲き>(「中国新聞」昭和27年9月19日)
その原動力は、連続完封劇の立役者である渡邉だということは言うまでもない。
「原爆乙女を救え」の動きも加速
この年の渡邉はよく投げた。わずか1カ月と10日間で6勝をあげた。渡邉の活躍なしには昭和27年シーズンにのしかかったセントラルリーグ連盟からの3割規定に、カープはつぶされていたかもしれまい。
しかし、渡邉の昭和27年度シーズンの勝ち星は、この日が最後となる。エースと呼ばれるには短すぎた期間であるため、カープ史にもわずかな記録としてしか残っていない。
カープの苦しい戦いぶりの中、広島の町に明るい話題がなかったわけではない。この時期、被爆者を救おうと、芸能人らが動き出していた。
この頃、不幸にも若き乙女らの容姿に深い傷跡が残った。いわゆる“原爆乙女”らのために募金が始まったのである。
<原爆乙女を救おうと、このほど結成されたヒロシマ・ピース・センター東京協力会は三日午後六時から東京都千代田区丸ノ内東京会館で第一回懇談会を開き、映画、劇場、カブキなどの一流芸能人たちと協力して原爆乙女のため二千万円の募金を行うことを決めた>(「中国新聞」昭和27年9月5日)
このことにより、多くの芸能人らが新聞紙面に列挙されるのだ。<その第一回目として、十二、十三、十四の三日間、東京銀座、松坂屋でプロマイドのサイン・サーヴィスをして一般都民に募金をよびかける>(同前)というものだ。
多くの芸能人らが動き出す中でも、海外から参加を呼びかけている人物もいた。当事者国アメリカからは、ニューヨーク協力会員パール・バック女史からヒロシマ・ピース・センターへの手紙が送られた。
その内容は<『ヒロシマ』の著者J(ジョン)・ハーシー博士らの運動で米国でも同情と協力の声が高まっており、欧亜十四ケ国を回ってこのほど帰米したM(マービィ)・グリーン博士も九月には世界でよい反響があるだろうと伝えてきている>(同前)とある。
このM・グリーン博士は後に、原爆乙女らをアメリカで治療をさせてはと、働きかけ、広島流川教会の谷本清牧師らとともに活動をする人物である。この年の6月に広島にやってきた。
彼は、原爆乙女らへの救済に加え、原爆孤児とアメリカの里親を結び付けた。さらに原爆孤児らのアメリカの大学への進学などにも精力的に動いていた。
アメリカが伝えた「ヒロシマ」
アメリカ人ジャーナリスト、J・ハーシー氏とは、原爆による甚大な被害、当時24万人が住んでいた広島市の凄惨な実態を、著書『ヒロシマ』で詳細に伝えた人物である。原爆の投下の瞬間にあっては、<あのすさまじい閃光>と表現し、ある神父の話から<「巨大な流星が衝突する話を子どもの時読んだ」>と原爆投下直後の<ピカ>の光の様子を表現している。
投下後の町中が焼け野原と化したことのデマや怒号は、<軍機でガソリンをまいたらしい><いや、何かの可燃ガスかもしれない>(同前)と記した。それほどまでに火災の広がりが早かったことや、<自分たちが、原子力の最初の實驗材料にされたという事實を>(同前)と伝え、その被害状況から原爆の恐ろしさをつまびらかにしている。文中で<すごい負傷をした二人——乳房をきれいにもぎとられた女と、火傷で顔中むけた男>(同前)など、目を覆いたくなるような表現にもでくわすが、著者J・ハーシー氏が心を痛めつつも、原爆の被害実態をつぶさに聞き取りをしてまとめたものとされている。
これらの話からか、近年、2024年8月、J・ハーシー氏の孫、キャノン・ハーシー氏が広島を訪れ、広島とアメリカを舞台にした映画をつくることを発表している。
また、先の手紙を書いたパール・バック女史であるが、彼女の著書である『神の火を制御せよ』においては、実在の人物を元に、原爆開発のマンハッタン計画に携わった科学者らの研究過程や日常を小説として描いている。彼女の広島に寄せる思いが、アメリカに広がりはじめた時期でもある。このことが、原爆乙女の治療を助ける活動を少しずつ前進させる。アメリカ人活動家たちによって、動きを本格化させていく。
この最中、カープ3年目のシーズンはいよいよ終盤に入る。“単月エース”として十二分の働きを見せた渡邉の活躍を描いた「カープを救った“単月エース”渡邉信義編」は今月で終回とさせていただく。来月からは「3割規定に屈しないカープ——3年目シーズン総集編」へと突入する。9月17、18日の2日間で4試合をこなしたように、連戦が続く中で生き残りをかけたカープの奮闘ぶりをお届けする。乞うご期待。
【参考文献】
『ヒロシマ』(1949年ジョン・ハーシー著、石川欣一・谷本清共譯、法政大學出版局)、『神の火を制御せよ 原爆をつくった人びと』(2007年パール・バック、丸太浩監修、小林政子訳・径書房)、「中国新聞」(昭和27年6月15日、9月5日、19日)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。